| 2003年05月29日(木) |
志賀直哉「清兵衛と瓢箪」 |
「清兵衛と瓢箪」の朗読CDを聞きながら帰った。 中一の時、教科書外の授業教材となって、 初めて、短編小説のおもしろさを教えてもらった作品である。 そのころはまだ、私は国語が得意教科ではなかった。 得意教科となるきっかけの事件は、それから1年後のことになる。 けれども、この「清兵衛と瓢箪」の授業では、 それまでまったく感じたことのない衝撃を受けたのだった。
清兵衛は瓢箪に凝る子どもである。 それも、大人たちが讃美する、でかくて奇抜な瓢箪などには目もくれず、 一見ごく平凡な瓢箪の中に、自分の気に入る瓢箪を見つけては、 大事に手入れして、コレクションにしている、、、という話である。 町中の瓢箪は全部見て回って知っていたはずの清兵衛が、 ある日、思いがけず見つけたつまらない店の瓢箪群の中に、 やはり一見なんの変哲もない瓢箪ながら、格別気に入るのを見つけて、 それを手に入れてから、もうそれを手放せなくなった。 学校にも持っていくようになり、授業中に磨いているところを教師に見つかり、 取り上げられ、罵倒され、母にも泣かれ、 日ごろから瓢箪に夢中の清兵衛を苦々しく思っていた父には、 罵倒された上、コレクションの瓢箪を全部たたき壊されてしまう。 教師からも父からも「将来到底見込みのないやつだ」と罵られる。
これだけの話なのだが、こんな後日談がついている。 清兵衛が10銭で買って手入れした瓢箪は、 取り上げた教師が学校の、今で言う用務員に捨てるようにやってしまったが、 用務員がちょっとした小遣い稼ぎのつもりで骨董屋に売ろうとしたら、 最初5円の値がつき、10円になり、結局50円出売れた。 そうしてそれはさらに、骨董屋の手から600円で売れた。 そんなことは、清兵衛自身も、教員も清兵衛の父も知らない。
当時の私には、この後日談の意味が自分ではわからなかった。 全体に、かわいそうな子どもがほんわりした雰囲気で書いてあるなぁ、、 と思っていた程度だった。 けれども、授業の中で浮き彫りにされてわかってきたのは、 清兵衛の美的感覚と、その確かさの証明が後日談にあるということだ。 それを大人たちは理解しようとしない。 今で言えば、清兵衛は100円で買ったものを60万円の価値に 仕上げたのに、父はそれを知ろうともせずに、 なんの役にも立たないことに現を抜かしているとしか思えなかったわけだ。
もうひとつの後日談があって、清兵衛は最近は絵を描くことに凝っている、 けれども、それに対しても父は小言を言い始めた、と言うのである。 大人は、自分の価値観から子どもの価値観を否定し、断罪する。 この物語は、大人の無理解が招いた清兵衛の悲劇である。 おとながちゃんと見る目を持っていれば、清兵衛は才能を発揮できたのに。。。
あのころ、この作品の意味を知ってとりわけ印象に残ったのは、 当時私が音楽にのめり込み始めて、 父からさんざん文句言われ始めたころだったからだろう。 私と音楽の関わりは、実際のところ大したことはないにしても、 志賀直哉自身も、小説を書くことで父親とのかなりの確執があったようだ。
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