2001年09月03日(月) |
「出口なし」上演の思い出(2) |
・・・で、大変なことになったわけである。 一方は指揮、一方は演出家のかけもち、しかも、演劇に本格的に取り組むのは初めて。。。 はっきり言って、無謀な試みとしか言いようがない。 けれども、「出口なし」を視覚的・音楽的に表現したい、という願望は、 もう実現へのお膳立てができてしまったのである。後に引けない。 ・・・この年は多くの授業を捨てて、特に必修のフランス語も捨てて留年確定に してしまったけれど、そのことについて、まったく後悔していない。
最初にやったのは、対訳ノート作りだった。 原文をノートの左ページに写し、右ページに日本語訳を書く。 それは、ちょっと難解な台詞をすぐに参照しやすくするためだけれど、 それをしながら、舞台上の登場人物の動きをあれこれ思い描くことにもなった。 夜中にそんな作業を続けながら、本当にこんなことやってていいのか、と 不安に駆られることもしばしばだった。
練習の時には、それほど多くの注文を出したわけではない。 時折、そこはもう少し早口で、とか、もっとトーンを下げた方がいいのではないか、とか、 位置関係を修正したりとか、そんな程度だったような気もする。 ただ、位置関係に関しては、このドラマの生命だと思っていたので、かなりこだわった。 「地獄、それは他者だ」というテーマは、第3者の存在が地獄だということだからである。 言葉がわからない人にも、その地獄性が伝わらなければならない。 また、このドラマの緊張感のためにも、強弱やテンポは大事に思われたのである。 時折、台詞の解釈について議論になったときもあるけれど、 役者の信じる方に譲ったことが多いような記憶である。 Mの考える照明案には、全部OKを出した。 音効には、ギター仲間のTに相談しながら、ジョン・ケージか誰かの、 ピアノ曲を使ったはずだが、よく覚えていない。 ただ、その選曲をMも(上演後話したフランス人も)かなり気に入ってくれたのである。
上演が近づいた。劇は11月、ギター部の定演は12月の上旬だった。 両立が難しくなった。どちらのメンバーにも、ストレスがやってきた。 演劇の練習の最中に、ギター仲間のTが「どうする気だ」と怒りの表情で 相談に来たことはよく覚えている。 どちらも手を抜けない。 劇の本番の3日前に、猛烈に奥歯が痛み出した。。。
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