こういう事情があるとは知らなかった。ますます首相の選択は誤りだ。 首相の靖国参拝は誤り、というか、知っていればできるわけがないだろうから、 こういうことを知らされてもいないということだろうか。
きょう、たまたま文芸春秋の9月号を読んでいたら、 古山高麗雄という作家がこんな話を紹介していた。 元中国大使の中江要介という友人が東京新聞に書いた話の要旨だそうだ。 もちろん、私もこんな話を初めて知った。(橋本さんは知っていたようだ)
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1972年に首相田中角栄が、日中国交正常化のために訪中したとき、 周恩来首相は次のように言って、賠償請求を放棄したという。 「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、 一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、 一握りの軍国主義者の策謀した戦争にかり出された犠牲者であるのだから、 その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるべきではない。 すべからく日中両国人民は、ともに軍国主義の犠牲にされた過去を忘れず、 それを今後の教訓とすべきである」 だから中国政府としては、A級戦犯を合祀する靖国神社に日本の首相が参拝することによって、 A級戦犯の戦争責任が曖昧になったり、その名誉が回復されたりすると、 自国民を納得させられない、というのである。
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・・・で、古山さんはこれを読むまでは、参拝自体にそんなに意味があるとは思わないけれども、 日本のやることに中国や韓国が騒ぎすぎだ、という考えを持っていて、 参拝したけりゃすればいい、くらいに思っていたけれど、 こういう経緯がある以上、首相は参拝すべきでない、と思うようになったそうだ。
「首相ともなれば、知らなかったでは怠慢になるが、 知っていてなお強行するとなれば、これは中国に対する非礼である。 礼節は守りましょうや」
「中国の内政干渉に反発する前に、国と国との礼節を大切にしない 自国の身勝手について反省しなければならないのではないか。 賠償金の請求を放棄してもらって、もらい放しで、 まったくお返しを考えないというのでは、虫が良すぎる。 ・・・(こういう経緯があるなら)角栄のあとを継いだ小泉首相は、 周恩来のあとを継いだ政治家江沢民の立場を無視するわけにはいかないし、 無視してはいけないのではないか」
・・・角栄先生、ニクッたらしいほど先見の明(?)のある策士だと感心していたけれど、 こういうことはちゃんと後輩に伝えてから逝ってくれないと、 せっかくの国交回復の功績も台無しになりかねないですよ。
しかし、この人の文章の中で、もっとも共感したのは次の部分だ。
「死ねば、靖国も何もない。無です。招魂も追悼も葬式も、生者の営みです。 霊魂だの、英霊だの、生者が一方的に思ったりしてることで、 死者には、言葉も思いもない。 生者は死者をもとりこんで生者の世界を作る。社会を作る。 生者は霊の存在を信じることもできる。死者との交流を作ることもできる。 だがそれは生者の営みであって、死者の方には何もない」
「英霊が浮かばれるの浮かばれないのといったことは生者の思いであり、 死者には浮かばれるも浮かばれないもない。 死者は無、生者の思いの中にあるだけだ」
生死について、ここまではっきり言い切る人がいるのだから、私もそういう勇気を持とう。 ただし、「生者の思いの中にある」存在は大切だ。
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