・・・というわけで、4日間、2つの原爆記念日も忘れていた、 少なくとも、帰宅後新聞を見るまでは忘れるような有様だった。 靖国参拝問題で大騒ぎなことを意識したのも、昨日の朝だった。
靖国問題は、批判する方としては大問題なんだけど、 その批判の対象になっている側に目を向けると、実にくだらない。 とにかく、なぜ「参拝するぞ」と意地を張らなきゃいけないのか。 何も、そうムキになることはないのである。 (票田確保など取引上の問題もあって、つらい選択なのか?) 慰霊なんてことは心の問題で、どこにいてもできる。 神社に祀られているとか言ったって、所詮は虚構である。 表面上の雰囲気を作っている仮の場所に過ぎない。 そこで拝むのが一番便利で支障のない人は、そこで拝めばいい。 それでその人の気がすむのなら、それはそれでいい。 それよりも、海岸から海に向かい、大陸に向かって祈る方がよい。 そして最後にこの日本の大地にひれ伏して祈るのがよい。 犠牲者たちの霊は、まだそのあたりを恨みがましく漂っているかも知れない。 少なくとも、名簿登録されているだけの場所よりは実質的である。 それよりももっといいのは、戦争の恐れを払拭する日々の努力である。 戦争放棄の理念を実現するために最善の努力を惜しまないことである。 そもそも、国と国との過度な競争やもめ事をなくすことである。 それが、犠牲者たちに報いる最高の慰霊である。 形式的な慰霊にこだわって国家間のもめ事を大きくするのは愚かである。
戦争に勝っても負けても、犠牲者たちは犬死にである。 お国のための名誉という虚構に覆われた、ムダ死にである。 当の犠牲者たちには残酷な言い方ではあるが、 事実、そういう死を余儀なくされたのである。 戦争の最大の罪は、生命の価値を安く見積もってしまう点にある。 今の世は、たったひとりのやむを得ない殺人に対してさえ、 執拗な真相追求と断罪をする、それほど生命は尊いのである、、、 いや、そんなことでは言い尽くせないほど、生命は尊いのである。 それなのに、戦争は何万人死なせても、何万人殺しても、 バタバタ、コロコロと死んでいっても、正義の一語で正当化され、 挙げ句の果てに、将来ある若者に向かって爆弾になれと強要する。 為政者たちにとって、兵隊たちはゲームの駒に過ぎず、 ○○部隊全滅と報じられても、国民の死を悼むよりは、 敗北を悔しがる、、、また負けたか、何してやがるんだ、などと。 虐殺されたのは大陸の国の人々だけではなく、 日本国民の多くも軍部によって大量虐殺されたのである、 あるいは、罪を問われることなく死刑に処せられたのである。 戦争は、それさえも正義の名の下に美化してしまうから、恐ろしいのである。
こんな生命の軽視・大安売りが、近代の大戦だけでなく、 何千年もの間、各国の内部や各国間で繰り返されてきて、 この何十年の間にようやく生命の尊さということが 常識となり始めたのである。 それが、敗戦によって得たかけがえのない利益なのであって、 もしもあの時勝ってしまっていたら、 日本の為政者たちは国内外にムダ死にを量産していたことだろう。 あれほどの悲惨にめぐり会うことがなければ、 人間の命の尊さに気づくこともなかった、というのも、 なかなか恥ずかしいことであるが、これは日本に限ったことではない。 そういう私だって、あの時代に生きていたら、 陛下に命を捧げる道徳で全身が染まっていたかも知れないのだ。 敗戦によって日本は誤った呪縛から解放される機会を得たし、 これを機に、世界中の平和に尽力しなければならなかったのである。
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