きょうの授業は、3時間ともテスト前の自習時間にした。 そこに、欠勤した人の自習監督が入ったり、恒例の会議が入ったりして、 少ない空き時間に、明日の吹連のコンクール打合会の準備を大急ぎでやった。 ホントは、自習時間にその準備をやりたいと思ったけれど、 野放しにしておけるほど立派な状況ではないので、 自習の監督をしながら、昨夜思い出した岩波新書の「時間」を読んでいた。 教員が無為にウロチョロするよりも、教卓で真剣に仕事したり読書したりする方が、 生徒も落ち着いて勉強するものである。
その本を読み返してみて、やっぱり不毛な感じがした。 著者自身が、時間というものの真相を自分で見ようとしないで、 いろいろな学説の中から、推理の対象としての時間というものを 浮き彫りにしようとしているとしか感じられなかった。 残念ながら、その本を職場に置いてきてしまったので、 引用しながら批判することができないのだけれど、 学生時代にこの本を読みながら、どうもこの内容に満足できなくて、 そんなもんじゃなんじゃないかなぁ、、、とぼんやりしている中で、 あんなイメージがフッと浮かんで、そのままその虜になってしまったのだろう。
けれども、この発見はある意味では非常に恐ろしい発見だった。 あらゆる存在は、過去と未来の無の間にある紙一重のようなものに過ぎないことになるし、 (それに厚みを持たせているのは、意識の特性に過ぎない) 時間も空間も、頑としてあるのではなく、様々の存在とともにある。。。 そのどれが潰えても、世界は無の闇に陥る。 (それにしても、「無」って、いったい何なのだろう。。。) すべては不断に消え去り、不断に生成し続ける。。。 絶対的なものはいったいどこにあるのか・・・? あの時達した結論は、やっぱり我々の意識の産物でしかない、ということだった。
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