朝刊に、2週間前から続いている車内化粧についての紙上論議の、 中間まとめ報告が載っていた。 「他人に迷惑をかけなければいいんじゃないかな」という女子高生の投書がきっかけらしい。
実は、迷惑でないこともないのである。 隣に座った中年の女性が、20分もの間化粧をし続けていたことがあるが、 ごそごそ隣で動かれるのは、実に鬱陶しいものである。 当人にとってはたったこれっぽっちのこと、と思うかもしれないが、 道具を取り出し、蓋を開け、鏡を見、筆を取り出し、顔に描き、この道具はしまい、 また新しい道具を取り出し、、、、見たくもないので見ないようにしていても、 その間私は「早く終われ早く終われ」とイライラし通しだった。 まさか、そんなに長いこと続けると思わなかったので、 その席から逃げ出す機会も逃してしまった。 「これっぽっちで迷惑だと思うなら、あっち行ったら?」と追い払われる運命かな?? 立っていて、目の前に座っている女性が化粧していたときも邪魔臭さを感じた。 幼児がじっと座っていられなくて、ムズムズ体を入れ替えては、 窓を叩いたり、母親に寄り添ったり、母親をつついたり、こっちをじっと見たり、 あの迷惑さと大差ない。 ケータイの通話は車内では禁止項目になりつつあるが、 ケータイの大声通話は広範囲に実害を及ぼすけれども、 すぐ傍にいるものにとって、という但し書きをつけるならば、 ケータイの通話よりも化粧の方がうんと鬱陶しいものである。
鏡を覗き込んで自分の顔を修正するときの視線というものは、 どう見ても、他人に見られるための表情を作っていない。 やはり、「密やかな愉しみ」にしておいてもらいたい、と願うのは、 古い観念に縛られた古い感覚だと、化粧公開派から非難されるのであろうか??
新聞投書の中には、 「鼻毛を抜いているおじさんと同じ」 「ビューラーとマスカラを持って目を見開いている姿は間抜け以外の何物でもない」 などの意見もあったそうだ。また、ある大学教授は、 「人前での化粧をフランス人同僚は『露出狂』と言っていた」 「車内化粧は戸を開けっ放しで入浴するのと同じ」 とも言っている。また、ある女性からの、ちょっと視点を変えた、 「周囲の人間を、『人格と心を持つ他人』としてではなく、 景色か物ととらえている。単なる物扱いされれば不愉快だ」 という意見も、そういう見方もできるなぁ、と思う。
とにかく、見たくはないし、目に入ってしまえば不愉快に襲われるのである。 「イヤなら見なければいい」と言われても、目に入れば不愉快に襲われる。 この不愉快さは、醜い容貌の人を見て感じるのとはまったく異質のものである。 車内化粧に限らず、喫茶店やレストランでの店内化粧や、教室内化粧も同様である。
時間節約の人も中にはあるだろうが、大半は、自分の化粧が気になったときに、 どこでも平然と直せる図太さを身につけただけの話である。 つい何年か前までは、化粧室に辿り着くまでは化粧道具が出せなかった。 そんなプライヴェートな営みを人前ですることを、恥じていたのである。 そういう恥の感覚を失った女性が増えつつあるということだ。 さらに、私の立場から言わせてもらえば、 化粧をしているときの表情がどういう様態のものであるかを読み取る力もなくしている。 これを革命と呼ぶべきか、堕落と呼ぶべきか、その判定は容易でない。
化粧に限らず、羞恥心の欠如というものは、今の高校生を見ていれば、 そこら中に指摘できる。しかし、まあ、これはまた別の機会に。。。
車を運転している女性の車内化粧、あれは、実に迷惑である。 電車内と違って、自家用車の車内は半私的空間とも言えるけれど、 車自体は公共の空間に存在していることを忘れてはいけない。 そういう女性が後方にいる場合、バックミラーで見ると、 時々すごい顔を見せてくれたりして、滑稽なおもしろさもあるのだが、 自分の前にいられると、大変な迷惑を蒙ることがある。 もちろん、前の車の場合は、化粧しているのかどうかわかりにくい。 けれども、ある朝、明らかに化粧をしているのが見える車の後をついて行くと、 蛇行運転でヒヤヒヤさせられた上、発進が3度も遅れて怒らずにはいられなかったのである。
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