たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
7月1日、年間第13主日。 ミサに出かけることはできなかったが、次男一家は徒歩10分のところにある、大阪梅田教会のミサに出席し、お嫁さんから、この日の礼拝のプログラム「聖書と典礼」がラインで送られて来た。 ラインには「タリタ クム が出てきました!」とあった。
<子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた > で、その場面のモザイク画が表紙に用いられていたからだ。
「たりたくみ」わたしのもう一つの名前はここからいただいた。 わたしが子どもの頃から青年期にかけて馴染んで来た口語訳聖書は 「タリタ クミ」(少女よ起きなさい) と訳されていて、今でも、そちらの言葉の方がしっくりくる。そして、繰り返し、この言葉に起こしていただいたことを、今も日々支えられていることを感謝に思う。
ヤイロの娘を癒すイエス 14世紀 モザイク画 イスタンブール カーリエ博物館所蔵
このテーマで多くの牧師や司祭が書いたり、説教したりしているが、このような文章を 余生風blog というブログで見つけたので、最後の部分、シェアします。
それは「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11;25)と言われたお言葉と呼応する。真に生きるとは何か。主の死と復活によって実現した神の国で生きることにある。人は必ず死ぬ。だから、あの少女もやがて年老いてまた死んだはずだ。それなのに主は一度彼女を蘇らせなさった。それは彼女がいつまでも地上で生きるためではなく、いつか神の国で永遠の命を得て生きるため、そして私たちがそこから信仰の神秘を学ぶためであった。
余生風blog より http://josef.blog69.fc2.com/blog-entry-209.html
|