たりたの日記
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2018年04月21日(土) |
無名の順礼者〜あるロシア人順礼者の手記 |
前々から書いておきたい本のことがあった。 あまりにたくさんの思いがあり、それで、余計に書くことができないでいたが、今日は書くのによい日かな。 さて、何から書くとしようか。
本の邦題は「無名の順礼者〜あるロシア人順礼者の手記」エンデルレ書店 2004年出版。 文字どおり、1人の名も無いロシア人順礼者が綴った手記で、時代は19世紀。
この本を私が手にいれたのは今年の1月の末だったが、この本の存在を知ったのは10年ほど前のこと。それもキリスト教関連本からでも、話からでもなく、その時文学ゼミの課題になっていた、サリンジャー の「フラニーとゾーイ」野崎孝訳(1976年)を通じてだった。その後村上春樹訳(2014年)の「フラニーとズーイ」が出版され、こちらも2回目を最近読み直したところ。
さて、「フラニーとゾーイ」の中に登場する 「巡礼の道」という本についてだが、 この本を肌身放さず持ち歩く20歳の女子大学生フラニーは、まるで価値観が違いうんざりしているボーイフレンドに、切々とこの本について説明するが、ボーイフレンドには全く響かず、フラニーは失望し、食事中に失神してしまう。
次に登場するのはフラニーより5つ年長の兄で俳優をしているゾーイと母親の会話の中。その本が原因で、フラニーの様子がおかしくなっていると心配する 母親に兄のゾーイが、その本について語る。その本はフラニーが図書館から借りたものではなく、フラニーが今だに尊敬している7年前に自死した、長兄 シーモア(この経緯については 別の本「大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 に書かれている)の部屋の机の上に何年も置かれていた本だと指摘し、その本について、ヒンズー教や仏教との相似点などを交えながら、ゾーイらしい考察を語る。 そして、最終の場面では、「巡礼の道」で語られる救済の道に希望を託そうとし、周囲の人間に背を向けようとしている妹に対し、その本をどう読むのか、祈りとは、信仰とはどういうことなのか、そもそも君はイエスを知り、イエスを愛しているのか、そうでなければその祈りは何ももたらさないと兄ゾーイは指摘する。しかし、彼女の苦しさは、どう生きればいいのか、それを見つけられないことにある。 最終的にゾーイの取った行動は、2人の精神的養育係だった長兄シーモアの言葉をフラニーと共有しようとすること。 シーモアはかつて、ラジオ番組に出演する前のゾーイが靴なんて磨く必要がないとごねると、 「おまえは太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」と諭す。 また、フラニーも、ラジオ番組に出演する前に、かつて長兄から 「太ったおばさんのために、なにか愉快なことを言うんだよ」と言われた言葉を思い出しす。
「シーモアの言う、太ったおばさんじゃない人間なんて、誰ひとりいないんだよ」 「その太ったおばさんというのが実は誰なのか、君にはまだわからないのか?それはキリストその人なんだよ。まさにキリストその人なんだ。」( 村上春樹訳 からの一部引用) フラニーにはその事がストンと胸に落ちた。今までのストラグルから抜け出し、喜びに溢れる。 とストーリーは終わる。
話は「フラニーとゾーイ」の方に行ってしまったが、このストーリーそのものにいたく感銘を受け、様々に考えさせられたが、まずは、この「巡礼の道」なる本を手に入れ、自分で読んでみたいと思った。原書に当たってみて、この本が実在する本であることは分かり、英語版ならアマゾンで難なく手に入れることができた。でも日本語訳の本は手がかりがなく、ようやく古い翻訳本がかつて出版されたことは分かってたものの、今は手に入らず、国会図書館にはあるが、貸し出し禁止になっているということで、諦めた。
ところがそれから10年後の1月末、この本の邦訳に巡り会うことができ、今はわたしの傍らにこの本がある。 一通り読んだ後、今2回目を読んでいる。熱があって氷まくらで冷やしながらも、この本は楽しく読める。楽しいというのは、その順礼者と共に、わたしもロシアの原野を共に旅できるからであり、彼の感謝や喜びが自分の事として共感できるからだ。素朴な言葉は頭を駆け巡ったりせずに、胸に直接届く。そして、わたしもこの「イエスのみ名の祈り」を繰り返す。 主よ憐れみたまえ 主よ憐れみたまえ 主よ憐れみたまえ..... 何回でも果てしなく
さて、10年のブランクの末に巡り合った、この本、「無名の順礼者〜あるロシア人順礼者の手記」はここで、見つかったのだった。 これが聖霊の働きでなくて、なんだと言うのだろう。
英神父ブログ 「福音お休み処」より、<祈りの手ほどき> 第6回 短い聖句を唱える祈り−3 イエスのみ名の祈り
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