たりたの日記
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2018年03月10日(土) 高橋たか子 「 過ぎ行く人たち」を読む

高橋たか子の晩年の日記「終わりの日々」は、高橋が2013年7月12日に心不全で他界した後、同じ年の12月25日に出版されている。
2006年から2010年までの日記だ。それ以降は何も書かなくなったというから、彼女が終わりの日々に残していった言葉となるのだろう。

彼女の作品を初期のものから、ほぼもらさず読んできて、また収集もしてきたのだから、当然、この本も購入したのだが、付箋をあちらこちらに貼り付けながらも、真ん中あたりまできたところで、読むことをやめ、そのままになっていた。

彼女が書こうとしている作品の事や、これまでに訪ねた場所の事、彼女の深層にある事柄など興味深く読みつつも、日記の中に、最近の日本への、特に女性への嫌悪と、それと比較したフランスへの絶賛や渇望といった類のものが繰り返し出てきて、彼女の怒りや嘆きを聴くのに辛いものがあったのだ。
老いる事で見えてくる事も確かにあるが、その一方でしなやかさを失い、頑なになってゆく老いの宿命を彼女の中にも見るようで。

ところが、数日前、この本がふと目に留まり、残りの部分もきちんと読んでおかなければと思った。相変わらず、ネガティブな嘆きは繰り返えされているが、彼女が翻訳しようとしている本の事や、最後に書いた小説の原稿が女子パウロ会から「過ぎ行く人たち」として出版された事や、晩年の読書ではスウェーデンボルグの「霊界日記」をただ一つのはげましとして読んでいた事など、興味深い発見がいろいろとあり、さっそく、「過ぎ行く人たち」と、スウェーデンボルグの「霊界日記」をアマゾンの古書で注文した。

昨日は帰宅すると「過ぎ行く人たち」が届いていたので、さっそく読み始める。美しい装丁の本!
本を開くと、上下の空間がいくぶん広く取られ、そのバランスが美しく、読みやすい。

二十八歳だった私は、1968年、ノルウェ ーで、或る男の子に出会った。
偶然に。

という書き出しのところから 引き込まれ、彼女に拐われ、パリへ、ソレムへ、コンクへ、ロデスへ、そしてルルドへ、わたしも旅した。

コンクは知っている。
わたしにとっても忘れられない土地。サンチェゴ巡礼の途上にあるこの小さな歴史的な町に、フランス巡礼のひとり旅の折、降り立った。それは前日泊まった巡礼宿で怪我をし、それ以上歩けなくなったからであり、ハプニングによって偶然に導かれた土地だった。古い石造りのサント=フォワ修道院に泊めてもらった。そこでの人々との出会いのこと、巡礼者達のためのミサと、聖堂に響き渡っていたパイプオルガンの音、歴史的に意味を持つ、タンパン、聖堂の扉の上の大きなリレーフの彫刻に魅入られたこと。そういった6年前の旅の記憶が鮮やかに蘇ってもきた。

主人公の外国でのひとり旅の、そのひりひりするような緊張感や孤独、それ故の何かに導かれて進むような内的充足や喜び、意識の深層の中を通ってくるような不思議な人との出会いや交流を、この本の中でもまた共有する。

というか、たったひとりでフランスのコンポステーラ、巡礼の道を歩いたのは、高橋たか子の小説の中に繰り返し出てくる この世にありながら、あの世を歩くような旅をわたしもしたいと、無謀にも思ったからなのだと確認する。

一人の少年との出会いから始まる旅は、彼女の深層へと深く分け入っていく旅でもあり、それはわたし自身の深層に深く沈潜していく時間になり、詩的で美しい表現は純粋な読書の喜びでもあった。







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