たりたの日記
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2018年03月08日(木) 映画「ゼロ・グラビティ」のこと

今日は朝から雨、家に篭って書いたり、読んだりするにはよい天気。体調も悪くない。
映画、ゼロ・グラビティの事を書いておこう。


『ゼロ・グラビティ』原題 "Gravity")は、アルフォンソ・キュアロン監督による2013年の、宇宙を舞台にしたSF・ヒューマン・サスペンス映画で、第70回ヴェネツィア国際映画祭のオープニング作品に選ばれている。

実はこの映画を見始めてすぐに、数年前にすでに観たことを思い出した。けれども呆れるほどにそのディテールを忘れている?とりわけ心に残るような内的体験もしないまま、ただハラハラ、ドキドキを楽しんだのだろう。
けれど、今回はこの映画が別の角度から迫ってきた。

スペースシャトルが事故に遭い、主人公のライアンは唯一の生存者となり、様々な死の危険をかいくぐり、地球へと生還するというストーリーの、めくるめく動的なアクションの中間部にひとつの静的な、内面的なシーンがあり、そこで語られる言葉が深く心に入り込んできて、映画を見終わった後も繰り返し、私の中で反芻された。

そのシーンというのはこうである。
燃料切れとなったソユーズから彼女は必死でヒューストンに助けを求めるが繋がらない。
けれども偶然にアニンガという人物と無線で繋がる。けれどどこの国なのか、彼女の助けの言葉は通じない。はるか彼方の地球からは犬の鳴き声や、赤ん坊の鳴き声、赤ん坊に歌う子守歌が聞こえてくるのだ。
言葉の通じない、アニンガという男にライアンは一方的に話かける。

私は死ぬのよ、アニンガ

人は誰だって死ぬ運命にあるけど、でも私は今日死ぬのよ。

妙な気分ね死を知るって

でも正直に言うわ。怖いの。
物凄く怖いの。

誰も私のために悲しまないし
誰も私の魂のために祈ってくれない

アニンガ 私のために悲しんでくれる?
わたしのために祈りを唱えてくれる?

遅すぎるわね

わたし、人生の中で一度も祈ったことがない

誰もまったく教えてくれなかったから

誰も教えてくれなかった...

その後、アニンガにそのまま子守歌を歌い続けてと頼みながら、彼女はコックピットの様々なスイッチをオフにし、死を選択しようとする。

このシーンの言葉は心に痛く刺さった。
彼女のこれまで生きてきた人生が深いところで孤独であったこと、誰とも繋がらず、命の源と繋がるすべのないまま、ある意味、無重力の状態で一人宇宙に漂っている、そんな彼女の魂が浮かび上がってきた。
そして死を目前にして、アニンガという見知らぬ人物に初めて祈りを求めた。
そして、それは、祈り方を知らないまでも、紛れもない、彼女の祈りであったと思うのだ。

その後のシーンでは、彼女を最後まで励ましながら宇宙の中に消えていった宇宙飛行士コワルスキーが幻想の中で、彼女の側にやってきて、彼女に語りかける。

娘は死んだ。これ以上の悲しみはない。
(彼女は事故で幼い娘を亡くしている)

だが問題は 今どうするか

もし戻るなら、もう逃げ出すのはよせ。

くよくよせず「旅」を楽しめ

大地を踏みしめ自分の人生を生きろ

ライアン
地球に還るんだ

幻想から目覚めた彼女の内部で変化が起こり、その顔には余裕の笑みさえ浮かび、彼女は生還を目指して行動を開始する。もう無重力状態(ゼロ・グラビティ)の魂ではなく、彼女は死んだマットに語りかけ、死んだ娘と繋がり、もっと大きな、彼女の魂の源と繋がっているように見える。その垂直な線の中で、彼女はしっかりと魂の重力(グラビティ)を手に入れたように感じた。
死ねか生きるかの瀬戸際で彼女はこう呟く

「結果がどうであり、最高の旅よ」


映画の最後のシーンで、彼女は Thank you!
とつぶやき、起きあがり、大地を踏みしめる。これもまた命の源への感謝の祈り。
誰も教えてくれなかった「祈り」を彼女は自分で手にしたのだ。

宇宙飛行士コワルスキーが幻想の中で彼女に言った「大地を踏みしめ自分の人生を生きろ」という言葉が彼女の姿に重なっていた。


ところで、彼女が燃料切れのソューズの中でアニンガとの通信をする直前に、コックピットに貼られたカード、いかにもロシア正教のイコンとおぼしきものが数秒間、映しだされる。無機質でモノトーンの宇宙船ソユーズの中で、色鮮やかな中世のイコンは印象的で、また象徴的だった。このイコンに何か意味があるのではと調べでみた。
イコンは「聖人クリストフォロス」とキリストの図で、クリストフォロス(「キリストを背負うもの」という意味)は、3世紀のローマ皇帝デキウスの時代に殉教したというキリスト教の伝説的な聖人で、旅行者の守護聖人という事だ。

また、ライアンが最終的に地球に還るために乗り込んだ中国の宇宙船「神舟」には弥勒佛(弥勒菩薩)の像が置いてあり、それが印象的に映し出されていた。弥勒は「慈しみ」を語源とし、“慈しみ”という名の菩薩とも言われるとある。

二度目に見たこの映画の根底に信仰というテーマを見出すことができたことは幸いだった。きっと忘れられない映画になるだろう。

これは余談になるが、
アニンガとの無線での通信のシーンをグリーンランドに住む アニンガの方から映像化した約7分のスピンオフ フィルム「アニンガ」の存在があり、この映画のあのシーンを、さらに意味深いものとして味わうことができたこともまた新たな発見だった。

「アニンガ」




たりたくみ |MAILHomePage

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