たりたの日記
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2018年02月11日(日) 石牟礼道子さん死去

石牟礼道子さんが10日未明に亡くなられた事を知ったのは、ちょうど、ベッドの中で「苦海浄土」を読んでいた時だった。
結局、金曜日、土曜日と37度〜38度の熱が出たり、下がったりを繰り返すので、都内へマイクロ波治療に出かけることはあきらめ、ベッドの中で読書と決め、もう太陽もすっかり上がった昼前だというのに、私は布団から頭だけ出し、文庫版の 苦海浄土に顔を突っ込むようにして読んでいた。
身体はここにあるにしても、心は逆らう事もできず、水俣の美しい海へ、そして、水俣病患者の家や病室、痙攣する患者達の眼差しへと連れて行かれていた。彼女の文章には、軽々と読むものの魂をその肉体から引き離し、彼女が見せたいと思っているその場所へと向かわせる力がある。そこにあるのは悲しみや怒りや訴えだけではなく、むしろ、人間の美しさ、魂の深さ、命の尊さへの畏怖、祈り、信仰、人間の感情の様々なものが引っぱり出される。行ったこともない水俣の海が、自分の故郷ででもあったような幻を見る。詩人の紡ぐ言葉の数珠は、使い古された言い回しや決まりごとの濁りがなく、魂をそのまま映し出した美しく澄んだ色をしている。わたしの祖母や従兄弟たちが話してい佐賀弁にどこか似ている天草言葉は、標準語では伝え得ない心の内が読むものへまっすぐに向かってくる。

今朝の朝日新聞の「天声人語」に、こういう文があり、共感した。

▶(石牟礼さんが)患者から学んだ哲学は「のさり」だという。天からたまわったものを意味する。豊漁が「のさり」なら、病苦もまた「のさり」。「迫害や差別をされても恨み返すな。のさりち思え(たまものだとおもえ)。加害企業も、酷薄な世間も恨むまい。その崇高さに打たれる。

のさりはたまもの、天からの贈り物。人間の目には苦しみや悲しみにしか見えないことが、浄土(神の国)からの光を通してみれば、たまものであることが分かる。

ここ5日ばかり、身体は健康であるとは言えなかったが、こうして、苦海浄土を読み、石牟礼さんの魂と対話できたことは、「のさり」でなくてなんだろう。

今日は結婚記念日。
37年前、小さな教会での結婚式、それに続く、保育室の小さな椅子とテーブルを使ってのティーパーティー。その時、会の司会を努めてくださったKさんから、お祝いのメッセージと贈り物が届いた。
その時には、まだ、影も形もこの世に存在しなかった次男夫婦からもお祝いが届いた。
私達を支え、祈ってくださっている家族と多くの友人たち、
37年のたどたどしい歩みを支えてくれた神、その 大きなたまもの に感謝!




たりたくみ |MAILHomePage

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