たりたの日記
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2017年12月18日(月) 死に向かってエネルギーを高めていきたい

ちょっと、ぎょっとする(一般的には) タイトルになってしまった。
以前、「楢山節考」の事を書いた時に、エネルギッシュに自らの死出の準備をする 70歳のおりんについて、「 おりんの終活ハイ」と、茶化したような表現をしたけれど、帯津良一医師の 「死に向かってエネルギーを高めていく」という表現を目にして、これなんだと納得した。私がおりんに共感することも、また、私の向かって行きたい方向もこの事なのだと合点が行く。若い頃からずっと傍らにあった言葉 「メメント モリ」(自らの死を覚えよ)の言葉の意味することも。イエスの言う、「いつも目覚めていなさい」という言葉も、そこと繋がる。
ある意味、ここでこうして書くという行為そのものが、その言葉を目指しての事なのだと。日記を紐解けば、初めて記した日記のた中にメイ ・サートンの言葉「豊饒な死」という言葉があるが、この言葉も、思えばその頃からずっと、私と共にあった。


この日の診察で、今度の抗がん剤が効かない時の事を考えて、帯津三敬病院の漢方外来相談に行く事を考えていると切り出した。別に漢方薬という訳ではなく、ホリスティックな治療を取り入れたいという事なのだが、これまでの経緯から、代替療法などと、言えば医師からは頭から否定されると思い、一般的に受け入れられている 漢方薬を例話しを始めたのだが、医師は難色を示した。
そちらの方向に行くんですね。漢方薬とか他の薬を飲むと、今やっている抗がん剤が効いているかどうかのデーターに影響が出るし、臨床試験段階の治療を受けるつもりがあるなら、データーが確かなものにならないので、そうした治療も受けられなくなりますよ。私だったら、こういうところには絶対行きませんねと、医師。予想通りの反応だった。

「私だったらしませんね」「○ ○ が、早くガンで死んだのは そういう治療に走ったからです」今までに何回となく壁のように私の前に立ちはだかる、 実力と権威のあるお医者様からのこうした言葉に患者の立場にある私は反論の言葉を見つける事ができなかった。その医師は、迷える患者が誤った方向に行かないように、文字通り患者を守ろうとして、そう言っていることが分かっているという事もある。けれど、何か根本的なところで噛み合わない感覚があるのを感じてきた。それは どこか 信仰の問題とも似て、言葉で理解を得るには難しいと。
けれども、今日は、自分の考えを言うことができた。

先生はそのようにお考えですが、私は別の考えで生きてきました。20年以上前から、ホリスティック医療には感心を持ってきました。ヨガもアロマテラピーも、そういう考えに基づいて、私なりに取り組んで来たことですし、健康を支えられてきました。その当時から 治らない病気を得た時には 、ホリスティック医学を目指している病院でターミナルケアを受けたいと思っていたのです。
先生がお考え、そういうもので治るはずがないとおっしゃる事はよく分かります。私も治らないものを奇跡的に治してもらえるとか、そうした事を期待している訳ではないんです。
ただ、死ぬに当たって、出来るだけエネルギーを高めていきたい、スピリチュアルな、精神的なレベルでの健康をできるだけ保っていたいのです。このまま効くかどうか分からないのに、身体のレベルだけでなく、精神的にもダウンして行く事を避けたいのです。

医者には当惑が見えた。私が何を言おうとしていたのか伝わらなかったのだろう。それでも、漢方薬ではなく、アロマテラピーや気功なら特に害はないですからいいですよ。と、紹介状は書いていただける事になった。

久々に感じる 相容れないさの感覚が後に残った。
というか、久しく、自分とは中心の部分の考え方や生き方が違うという人と、正面から
向かい合うこを避けてきた事を思った。

この日、医師にこのように対面できた事は、「これだ」と、いう言葉に巡りあったからだと思う。

「死に向かってエネルギーを高めていくということ。」

霊的に健康(世界保健機構は健康の条件のひとつに 霊的健康という項目を挙げている)
とはこういう事を言っているのではないか、しかし、医療の現場で、霊的な健康、それについての考えが欠けているのではないか、、、

あぁ、それなら、教師はどうなのだろう。出来る事が良し、出来るようにした事が良し
出来ないのは困る、出来るようにしなければと、子ども達の学力や脳力を物差しにしていないか。私自身もまた問われる。
こうした事もまたレッスン。
英語教室を今年度でクローズする事を、先週保護者に伝えた。
最後の3ヶ月だけでも、一番大切な事を見過ごさないようにしなければと言い聞かせる。目に見える事を通してではなく、生徒ひとりひとりの魂と交流するということ。




『生きるも死ぬもこれで十分 』(帯津良一 著) より、


ほども名前をあげた藤原新也さんは 、名著 『メメント・モリ 』で 、こんなことをいっています 。 「死というものは 、なしくずしにヒトに訪れるものではなく 、死が訪れたその最期のときの何時 (いつ )かの瞬間を 、ヒトは決断し 、選びとるのです 。だから 、生きているあいだに 、あなたが死ぬときのための決断力をやしなっておきなさい 」その決断力を養おうとすれば 、日々 、生命のエネルギーを高める攻めの養生がどうしても必要になってきます 。守りの養生では貯金を食いつぶすようなものですから 、死ぬときにはエネルギーが空っぽになってしまい 、いいラストシーンなどとても期待できません 。楊名時先生のラストシーンは見事でした 。私は 、最後に握手をしたときの手の感触をずっと記憶にとどめておくでしょう 。メモを手に握って旅立って行った清水さんのラストシーンも 、またすてきな演出でした 。亡くなる前の虚空に旅立つ戦略会議も印象に残ります 。ベッドの上に正座し 、 「ありがとうございました 」と頭を下げた旧友の姿もありありと浮かんできます 。


たりたくみ |MAILHomePage

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