たりたの日記
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2017年10月30日(月) 文学ゼミ「 楢山節考」

ほぼ一年振りに高田馬場での文学ゼミへ。
今月の課題図書は深沢七郎著「楢山節考」。参加者は主催者の正津先生を含め12名。昨日書いた日記と同様、1年も顔を出していなかったというのに、ずっとこうしていっしょに読書会を続けてきたような気持ちになる。2004年の9月からずっと。
ここのところはあまり参加できなくなったが、それでも課題図書は毎月読んできた。一人では決して読まないだろうと思うような本も課題ともなれば、熟読し、作者や作品の背景なども一通り調べてみようという気になる。

今回のー「楢山節考」もそうだった。ずいぶん前に今村昌平監督、坂本スミ子、緒形拳主演の映画を観たが、そのテーマの重さと暗さだけが記憶に残っていて、 「楢山節考」の文字を見るだけでも、関わりたくないと思うような文学作品だった。ところが今回読んでみると映画で受けた感じとはまったく違った印象を受けた。主人公 おりんには明るく力強いものを感じたし、重いテーマであるには違いないものの、読み終えて気持ちが重く沈むこともなく、かえって励まされるような、エネルギーをもらえたような読後感だった。
ゼミでは毎回のように様々な感想や意見が出て、その人なりの受け止め方を聴くことは楽しかった。私は感想のようなものを手帳にメモ書きにしていたので、それを見ながらこんなことを話した。

予想に反して、この小説に明るく力強いものを感じ、おりんには大いに励まされたのだが、それがどこから来ているのか考えてみた。

まず、話しの構成がきっちりしていて分かりやすい。
人物描写がはっきりしていて、大雑把で多少誇張して書いていることで、話しが現実的になり過ぎず、昔話を聴いているような効果をもたらしている。たとえシリアスな内容が語られ、また暗示されているにしても、それを架空の世界のお話に閉じ込めることで、安心してその世界に入っていけるという昔話の効果だ。取り分け、この小説はいくつもの村人達が歌う歌を軸に話しが進んでいく。浄瑠璃のような歌物語の仕立てに作られている小説。

この小説の登場人物、一人一人を観ていく時、作者がそれぞれの人物を一定の距離を置いたところから眺め、公平にまた冷徹に描写していると感じる。 その表現は神話や昔話に見られるようなアーキタイプ(原型)を示しており、それ故の骨太さ、力強さがそこに生まれてくるのだろうし、潜在意識に働きかけられるので、どの人物も自分自身であるという感覚が起こる。センチメンタリズムの入る余地はなく、感情移入もある意味拒まれるのであるが、自らの潜在意識に結びつき、作品との関わりも深いものになる。

後は、深沢七郎と交流のあった浜野茂則氏の著書、「伝記小説 深沢七郎」や「深沢七郎論」で得た深沢七郎と母親との関係や、この「楢山節考」が書かれた背景などについても話した。この「伝記小説 深沢七郎」や論文は著作の私の家の近くでギャラリーカフェを経営されている浜野氏から直接お借りし、実際にお話も伺うことができた。幸い、Amazonで古本が手に入ったので購入し、ゼミのメンバーへの貸し出し用とした。

読書会のメンバーの一人、数ヶ月前に大きな癌の手術をしたばかりのSさんは、残り少なくなった人生をどう生きるか、老人の生き方を考えさせられたと、私がおりんに抱いたのと同じような感想を語られた。死に直面した彼や、私のような者は おりんの死への向かい方に共感を覚えるのだ。「終活ハイ」 とでも言うような一種の高揚感をおりんと共有しているのだろう。

山の神様に喜ばれるような死を死にたいという願いはおりんにいそいそと死出の準備をさせ、 家族に残す食料を整えさせる。 この世の不自由さから放たれ、神の懐へ立ち返りたいという願いは冬の楢山に参るという死への恐怖を平安へと変える。そうしたおりんの姿はひとつの人間の原型であり、どの人の内にも存在するひとつの自分の姿であるに違いない。




たりたくみ |MAILHomePage

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