たりたの日記
DiaryINDEXpastwill


2017年07月17日(月) わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。

今朝も、4時半からの、霊的学び、聖書日課、黙想、ヨガができた。

今日はLesson95
I am oneSelf, united with my Creator.
「私は 、単一の自己であり 、私を創造した神と結ばれている 」
というもの。
1時間置きに、5分間、このテーマに思いを向けるという課題。
今日は1時間毎にアラームが鳴るようセットしたので、昨日よりは、この課題を思い起こすことができた。

ところで、今日の聖書日課はマタイによる福音書10章の34節からの部分
イエスが
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。.........

と語るところ。

若い頃から何度も何度も読んでは、はっとさせられる箇所だった。
恵と愛に満ちた癒し主イエスは、時として、どきりとするような言葉を私達に突きつける。そして、わたしは、そういう事を語るイエスだから、好きなのだとも感じている。

しかし、「奇跡のコース」を学ぶ事で、今までよりはるかに、イエスのこの言葉が分かるようになっている。
その説明を試みよう。

イエスが来たのはこの世の中で人がうまくやっていく方法を教えるために来たのではない。この世の価値観とは対極にある、「神の国」を知らせるために来たのだ。
イエスはここで、この世と神の国とは相容れないものであり、そのどちらも手にできるようなものではないという事を弟子達に告げる。
しかし、「神の国」を見出す事こそが、ひとり、ひとりにとっての人生の目標であり、最高の喜びであってみれば、何よりも優先して求められるものである事を繰り返し、弟子たちにそして私達に語りかける。
ここでイエスが言う家族は、「この世」の象徴としての家族で、神の国の中で、一つにされている人と人との繋がりとは別次元の事を言っていることが分かる。「神の国」を見えなくさせている、幻想としての「この世」の象徴として。

「奇跡のコース」は、幻想から解放され、神の国を見ることができるようになるためのトレーニングなのだが、あの時、弟子達にこの様に語った同じイエスが、現代に生きる私たちに向けて、同じ事を、また別のアプローチで訓練しようとしているのだと感じる。


さて、そんな事を考えながら一日をスタートしたわけだが、午後3時までは、ベトナム行きの準備や読書でのんびり過ごし、昼寝もして、四谷で5時からのミサに出かけるべく、夫と共に3時過ぎに家を出る。
今日は月曜日の夜7時からの英神父の聖書入門講座の参加者のための、解説付きのミサ。
いつもの主聖堂とは異なる、茶室をイメージして作られたという、ザビエル聖堂での小人数でのミサは、とてもよかった。

説教は、朝予習をしていた箇所だっただけに、興味深く聞いた。
何が一番大切なのかということ、この入門講座も、家族よりも、自分の命よりも大切なものを見つけるためのもの。
わたしがあれこれ、なけなしの言葉で説明を試みたが、神父の言葉は分かりやすく、腑に落ちる話だった。


<マタイによる福音10章34〜11章1>

そのとき、イエスは使徒たちに言われた。10・34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
36こうして、自分の家族の者が敵となる。
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
40あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
11・1イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。


たりたくみ |MAILHomePage

My追加