たりたの日記
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実のところ、今日は12月10日なのだが、2日の日記の続きをここに書くことにしよう。 といってももう夜中の1時を回ってしまったから、今日は少しだけ。
トラピスチヌス修道院は、その内部には入る事ができないので、そこにいる修道女達にも会う事ができないし、その暮らし振りを知る事もできないが、 修道院の庭の片隅にある売店で、「天使の聖母ートラピスチヌ修道院」という写真集が売られていて、この本の中で、函館在住のカメラマン、野呂希一氏の美しい写真と共に、修道院の暮らしが紹介されている。
キリスト者とは言いながら、世俗にまみれ、のらりくらりと日を送るわたしにとって、修道院での生活に遠い、かなわぬ憧れのような気持ちがある。 修道院やキリスト教には限らない。 アーミッシュがそのままのスタイルで生活している村や今はもう絶えてしまったクェーカー教徒のコミュニティーは好きな場所だし、仏教の世界でも、座禅や修行といった事に心惹かれる傾向がある。 しかし、それは、わたしに限った事ではなく、多かれ少なかれ、世俗で生きるどの人の心の中にもある憧れなのかも知れない。
修道の生活とはある意味、死を側に置いての、死に目覚めての日常ではないだろうか。 メメント・モリ(あなたの死を覚えよ)という挨拶の言葉にこめられた通り、死の方向から眺めた今という時を生きる空間であり、人々なのだろう。
修道をする根性など持ち合わせてはいないわたしは、せめて、日常から離れて、一人旅したり、山の中へ入る事で、その感覚を得ようとしているのかも知れない。
この写真集の中から、余分なものがそぎ落とされた、シンプルの極みのような清々しい生活の香りが漂ってくる。 農作業に勤しむ修道女達の写真がとりわけ好きだと思った。
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