たりたの日記
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正津文学ゼミ、この日のテキストは魯迅の「狂人日記」。竹内好訳。
最初に一読した時には、いったい作者が何を伝えようとしているのかさっぱり分からなかった。始めから終わりまで「狂人」の言葉であるから。そうして「狂人」の言葉である以上、この話にどれほどの信憑性があるのかと。
周りの人間は人肉を食う人間たちであり、自分もそういう輩に食われようとしていると。また兄貴が人肉を食うのなら、自分はその兄の弟だから、たとえ自分が食われてしまったとしても、いぜん、自分は人間の肉を食う人間の弟だと、自分の運命をも呪っている・・・
しかし、これがある事を伝えんがためのカモフラージュという事が分かれば、するすると謎は解ける。いったい魯迅が狂人を装い、闘を挑んでいる相手とは何なのか。
魯迅の弟の周作人の回想録によれば、「『狂人日記』の中心思想は、礼教(儒教)が人を食うことである。・・・・・・これは礼教打倒の一篇の宣伝文であって、文芸と学術問題はいずれも二義的なことであった。」という事だ。 闘う相手は当時の中国を支配し、封建制度を維持させる要となる儒教思想。それならば、同じ、儒教の影響の下にある、日本人のわたしにとっても、その闘いはあながち無関係ではない。 しかし儒教とはいったいどういうものだろう。そのものについては漠然とした、知識というよりは感覚的なものしか持ち合わせていない。とすれば、この作品をほんとうに理解するためには、魯迅が闘いを挑んだ儒教がどういうものなのか、その事をまず知らなければならないのだろう。
この事は今後の課題として、作品の中の魯迅の立ち位置がわたしは好ましいと思った。搾取される側が搾取する側を一方的に糾弾するというのではない。自分もまた地主である兄の弟、人肉を食う立場にある人間なのだと、その刃をわが身に向けている。これが、魯迅の作品を説得力のある、力強いものにしているのではないだろうか。
ここでキリスト教を例にあげるのは憚れるが、この魯迅の立ち位置を見る時「我罪人の頭なり」という聖書の一節が浮かんでくる。神の言葉を伝えようとするパウロ、しかしその自分自身が罪人の頭だと訴えるパウロの説教には説得力がある。しかしキリスト者の場合、いかに自分は罪人であろうと、その罪を赦すイエス・キリストという救い主が存在する。それ故、罪人である事に絶望することはない。しかし、魯迅はどうだ。自らが人を食う人間だと自覚する時、そこに生じる絶望や寂寞はどのくらいのものだろう。
この「狂人日記」を魯迅はその絶望の果てに書いたと言う。絶望しつつもデカダンに陥る事なく、「人生のために」「人生を改良するために」この作品を紡いだ魯迅の功績は大きく、尊敬に値する。 魯迅がこの作品を同人誌の仲間の銭弦同に勧められて書いたということを「自序」の中に記しており、その文章は印象深い。
以下引用 「彼らは『新青年』という雑誌を出していた。しかしその頃はまだ誰も賛成する者がないばかりか反対する者もないようであった。わたしは彼らが寂寞を感じているのではないかと思った。だが、いった。
『かりに鉄の部屋があるとする。一つも窓がなく、どうしても打ち破ることができないのだ。なかには大勢の者が熟睡していて、まもなくみな窒息しようとしている。しかし昏睡したまま死んでしまうのだから、死の苦しみを感じることはない。今君が大声でわめいて、比較的醒めている幾人かの者を起こしてしまったら、その不幸な少数の者に、救うことはできないのに、臨終の苦しみを受けさせることになるが、君はそれをかえって彼らにすまないとは思はないのか』
『しかし、幾人かの者が起きてしまったら、その鉄の部屋を打ち破る希望が絶対にないとはいえないだろう。』
そうだ、わたしにはわたしなりの確信があったが、しかし希望ということになると、やはり、抹殺することはできないことである。なぜなら希望は将来にあるのだから、絶対にないという私の証明で、彼のあるという説をうちくだくことはできないから。そこでわたしはついに、文章を書くことを承諾した。それが最初の『狂人日記』という作品である。
参考文献
集英社版 世界文学全集 72 魯迅 解説:駒田信二
青空文庫で別訳の「狂人日記」が読めます。 「狂人日記」 魯迅著(井上紅梅・訳)
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