たりたの日記
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2007年04月08日(日) わたしは主を見ました・・・マグダラのマリアの証言

イースターの朝
礼拝の中で子ども達に話すお話。
わたしはマグダラのマリアになって、彼女の言葉を、彼女の想いを語ろうと思う。
わたしは復活の主に、彼女を通して出会ったのだから。        


       わたしは主を見ました


わたしの名前はマグダラのマリア。
わたしは復活されたイエス様にお会いしたのです。それも誰よりも先に。
その時の事をお話しましょう。

わたしはイエス様が十字架につけられ、その上で苦しまれるのを見ました。見るのは辛くて耐え切れない事でしたけれど、イエス様のお母さんを支えながら最後まで十字架の下から離れることはできませんでした。イエス様は最後に「成し遂げられた」とおっしゃり、頭を垂れて息を引取られました。その時はがくがくと体が震え気が狂いそうでした。
そのイエス様の脇腹を兵士が槍で刺しました。するとすぐに水と血とが流れました。イエス様は本当に死んでしまったのだと知り、わたしはもう体を支えている事ができないほど苦しく長いことそこにうずくまっていました。

やがて亡くなったイエス様の体をアリマタヤのヨセフさんが十字架から下し、ニコデモさんも死んだ体が臭くならないためのお薬の没薬と良い香りのする香水を混ぜたものを持ってきました。二人はイエス様の体に良い匂いのする香水をたらして布で包みました。そして、近くの、まだ誰も葬ったことのない新しい墓にイエス様の体を入れ入り口は大きくて重い石で蓋をしたのです。その重い石はとてもわたしなどが動かせないほどの重い石です。もう、これでイエス様のお姿を見ることもできないのだと思うと激しい悲しみが繰り返し襲ってきて泣く事を止めることができませんでした。

それから三日経ちました。日曜日の朝でした。まだ暗いうちに、わたしはイエス様のお墓に行きました。もうイエス様にお会いできないと思うと悲しくて淋しくて何もする気持ちになれません。ついふらふらとお墓まで来てしまったのです。

ところがどうでしょう。入り口を塞いでいた石が取り除かれているのです。わたしはびっくりしてペテロさんとヨハネさんのところに走っていって、石が取り除けてあることを知らせました。二人とも顔色を変えてまるで競争でもするかのように先を争って走って墓まで行きました。まず先に着いたペテロさんが、次にヨハネさんがお墓の中に入ってみると、そこにはイエス様の体はなくて、イエス様の体を包んでいた布だけがあるのです。イエス様の頭を包んでいた布はその布とは別の離れたところに丸めておいてありました。

「いったいどういう事だ。誰がイエス様の死体をぬすんだんだ」ペテロさんもヨハネさんもこの事を仲間に伝えるために行ってしまいました。
わたしは、イエス様の体がお墓からなくなってしまった事を知ると、気が抜けてしまい、お墓の外に立って泣いていました。だってイエス様が死んでしまわれた事でもう、淋しくてたまらないというのに、死んだイエス様のお体までどこかに持っていかれたんですもの。もうわたしには何もなくなってしまった、今からどうやって生きていったらいいんだろうと思うと、そこから動けないのでした。

イエス様がお墓の中にいないのは分かっていましたけれど、わたしは何か、お墓の中をのぞいてみたい気持ちになって泣きながら体をかがめてお墓の中をのぞいてみたのです。
すると、そこに誰がいたと思います。天使がいたのです。白い衣を着た天使が二人、ちょうどイエス様が置かれていた頭のところと、足のところに立っていたのです。そして天使達はわたしになぜ泣いているのかと聞いたのです。わたしは天使に「わたしの主、イエス様が取り去られました。どこに置かれているか、わたしには分からないのです」と訴えました。

その時、わたしの後ろに人がいるような気がしたので振り向くと、そこに男の人が立っていました。その男の人は「婦人よ、なぜ泣いているのか、誰を捜しているのか」とわたしに話しかけました。わたしはその人がお墓の管理をする人なのだろうと思って、その人に背中を向けたまま強い調子でこんな風に言ったのです。「あなたがあの方を運んでどこかへ持って行ったのですか?そうでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしがあの方をひきとります。」
すると、その男の人はわたしに「マリア」と呼びかけました。
わたしは「はっ」としました。誰の声でもありません。それはイエス様の声です。間違えようがありません。それはいつもイエス様がわたしを呼ばれる時の声。イエス様が死んでしまっても、夜の夢の中でまた昼目覚めている時にもはっきりと耳の奥で聞えるイエス様の声、優しく心の奥の方に響くあの声だったのです。

わたしは思わず「ラボニ、先生!」と叫んで後ろを振り向き、イエス様に駆け寄りました。
するとイエス様は「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行ってこう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
わたしの心は喜びで一杯になりました。
さっきまでの寂しさや怖さは嘘のようにすっかりと消えてしまいました。まるで暗い夜が明けて、太陽の光があたりを照らすようにわたしの暗かった心がすみずみまで照らされ、温められるようでした。そう、冬の後にやってきた春のように、今のこの季節のように、花が咲き、鳥が歌い、ウサギやリスたちが長い冬の間の眠りから目覚めるこの春がわたしの心の中に戻ってきました。イエス様は死んでいなくなってしまったのではなかったのです。死を通りぬけ、生き返り、もうこれからはずっとわたしの側にいて下さるという事をその時はっきりと知りました。わたしは転げるようにして、みんなのところに走って行きました。そして心を喜びでいっぱいにして叫びました。
「みなさん、聞いてください。わたしは主を見ました!」
わたしはイエス様のお弟子さんたちやイエス様のお母さんのマリヤさん、また会う人みんなに、イエス様とお会いした事、イエス様がわたしに伝えなさいとおっしゃった事を伝えました。わたしが生きている間、何百回も何千回も・・・
今、ここでこのお話を聴いているあなたにも、わたしは伝えます。
「わたしは主を見たのです」「ほんとうによみがえったイエス様にお会いしたのです。」


       2007年4月8日 イースター 子どものためのお話

 ( ヨハネによる福音書19章〜20章からの再話)


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