たりたの日記
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2007年04月03日(火) 誕生日の日記

<写真は先日塩山駅で撮った雛人形とつり雛。今日4月3日は旧暦の雛祭り>




 51歳になった。
さてこの1年をどういう風に過ごそうか。新たな1年にタイトルを付けるとすればどんなタイトルをつけようか。と、そんな事を考えながら、ここ6年間の誕生日に書いた日記を紐解いてみた。

 子ども達が大学生になり、自由な時間が増え、気持ちの上でも余裕ができ、英語教室の仕事と家事、それに教会の奉仕の他にも、ジム通いやダンス、文学の勉強と山登りをする事ができるようになった。
 そう、ここで書くこと、またそれを元にして本を一冊作った事もこの6年間の大きな事だった。
 さらには、多くの素敵な出会いが続き、この歳になって新しく友を得、仲間の中にいることの心地よさを味わっている。

 言ってみれば、外に向けて自分を開き世界を広げてきた6年間だった。外から見れば、あれもこれもと雑多な印象を受けることだろうが、わたしにとってはひとつひとつの事が繋がりあっているのを漠然と感じている。
 この日記を綴ることが、わたしに命を下さっている神へのレスポンス、応答という位置づけは変らない。書くことに留まらず、応答としての表現をして行きたいとそんな気持ちでいる。

 いただいている命を、時を、知らされた事を、学んだ事を、ひとつの表現にしてゆきたい。
 教える事も、家事やハウスキーピングも表現のひとつではあるだろう。ここに表現者としてのプライドを持ってかかわりたい。
 ダンス、舞台、文章での表現にもっと心を留め、鍛錬して行きたいと思う。そしてそれらをひとつに統べるものが祈りであるように。あの方との垂直な線上で行えるように。

 この4月から新しく始めることがひとつある。
朗読の勉強。
ずっと心にはあったが、またやってもきていたが、意識的に学ぶことのないままだった。
 4月から9月まで、第1、第3土曜日に、長谷川勝彦氏の朗読講座を受講することにした。自分の声で何をどう伝えるのかという事を学んで行くことになるのだろう。またドラマを伝えるという事も。

 今朝、長谷川勝彦氏の著書「メディアの日本語」の付箋をつけていたところを読み返し、この世界に入ってゆくことの期待を新しくした。
踏み出す方向を暗示するものとして、ここに留めておこう。


長谷川氏はアウグスチヌス(ローマ時代末期の最大の神学者・思想家)は教会での朗誦について、その行為をこう分析していると、彼の言葉を引用している。またこれを「ナレーションする行為の分析」そのものだと思うと述べている。

 私は自分の知っている歌を歌おうと心構える。歌いだすまえに、私の期待はその歌全体に向かっている。ところが歌いだすと、私の期待からもぎとった部分が過去になるにつれて、私の記憶はそのほうに向かっていく。そこで私の精神活動の生きた力は二つの方向に分かれる。一つは私が歌いおえた部分のゆえに、記憶のほうへ、もう一つはこれから歌おうとする部分のゆえに、期待のほうへである。けれどもわたしの直視はいまここに現前し、それをとおって、期待はますます短縮され、記憶はますます長くなり、ついに期待の全部が尽きてしまい、そのとき働き全体は終わり、記憶へと移ってゆく。

              *

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