たりたの日記
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2007年04月09日(月) |
永井 荷風著「 ADIEU(わかれ)」を読む |
この作品は (上)「巴里に於ける最後の一日」と(下)「わが見しイギリス」で構成されているが、この作品に貫かれているのは、この作品の冒頭の言葉が示す通り、 フランスを離れることに対する絶望――Desespoire(デゼスポワール)――だ。
(上)においては、作者の愛する巴里の風景や人物の巧みな描写と共に、いかに巴里が素晴らしいかという賛辞が事が繰り返され、反対に(下)に置いてはるイギリスの描写や人物の描写を通じて、この土地がいかに巴里と比べ見劣りし愛せない土地であるかが綴られている。
この作品を最初に読んだ時は、まぁ、なんと正直に包み隠さず、自分の気持ち書いていることだろうと苦笑した。巴里に対する思い入れが極端すぎ、また巴里を離れる事への心痛があまりに赤裸々に書き連ねてあるため、作者の気持ちは充分理解できるものの、滑稽な印象さえ受けた。
何にしろ過剰な表現というのは読者にあまり良い印象は与えない。フランス人からすれば、あまりに憧れが強く、舞い上がっていると見るだろうし、イギリス人が読めば間違いなく憤慨するだろう。また日本人にとっては作者と同様な体験でもない限り、ちょうどお惚気を聞くような居心地の悪さがあるだろう。
しかし物を書くという動機は様々だ。別に読者に情報を与えるために書くのでもなく、読者を良い気持ちにさせるために書くのではない文章もあってしかるべきだ。何も作者は読者にサービスする必要はなく、このように書かなければ済まない内なる迫りに動かされて書いて悪いはずはないのだ。
作者はこの文章を書くことでフランスを去った事への心痛を癒そうとしたのだと思う。 また再び見える事のない恋人である巴里に向けてのラブレターをしたためる事で、自分の想いに決着を着けようとしたのかもしれない。書くという作業にはそうした治癒力がある。 そして自分を慰めるためには、読者に遠慮することなく、想いをぶちまけなければならない。表現は抑えることなく激しければ激しいほどセラピーの役割を果たす。 荷風はこの作品でその作業を為し終えることができたのだろうと推測する。
この作品が感情過多なラブレターであるにもかかわらず、文学的価値が高いのは、その構成の巧みさ、文体の美しさ、言葉のリズムが持つ心地よさ、そして優れた描写力にあるのだろう。荷風の眼を通してみた巴里やロンドンを読者もまた味わい、文章の心地よさに浸ることができる。 声に出して読んでみるとさらに味わいが深い。また描写の部分、心情を吐露した部分が交互に書かれていて、このコントラストを読む調子を変えて表現するとおもしろい朗読になるような気がする。
*永井 荷風著「 ADIEU(わかれ)」 はこちらで読めます。
また永井荷風の「狐」という作品について書いた日記はこちらで。
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