たりたの日記
DiaryINDEXpastwill


2007年03月11日(日) 東北旅日記4 <宮澤賢治記館〜イギリス海岸〜小岩井農場>

<写真は宮澤賢治記念館から「ポラーノの広場」を望む>


3月4日つづき

羅須地人協会の建物を出た後も、ここに入って来た時に話しかけてくれたおじいさんが、話しかけてくれた。聴けば、賢治の家の隣に住んでいたという。
「落書きみたいなもんが、今は宝物になってしまった」という言葉は印象的だった。いくらでも話は聴けそうだったが、まだまだ訪れたいところはあるので、柳田さんのおっしゃるその方に暇を告げTさんは「宮澤賢治記念館」へ連れて行って下さる。

賢治の手書きの原稿の筆跡に、何か親しみを感じる。ガイドの方がそこにあるひとつひとつの資料についてかなり詳しく説明をしていたので、わたし達も脇から聞かせていただく。
印象的だったのは、賢治の没後、賢治の手帳に書きつけられていた「雨ニモマケズ」の詩は実はその最後のページに大小の妙法蓮華経の文字が、ぎっしり書き込まれている。賢治は念仏、祈りをそこに書き付けたのだ。そういう者にわたしは為りたい、今生ではそうなれなかったが、来生ではそういう者として生きたいという悲痛なまでの祈り・・・
宗教の違いはあるが、その賢治の気持ち、祈りが良く分かる。

「宮澤賢治記念館」には賢治が研究したたくさんの鉱物のコレクションや賢治がイギリス海岸で採取したくるみの化石もあり、じっくり見てゆくならまる一日かかるほどだったが、1時間ほどでそこを出て、賢治の設計した庭園を再現した「ポランの広場」を上から眺め、賢治童話館をさっと巡り、イギリス海岸へ向かう。

イギリス海岸というのは賢治がそう呼んだ北上川の西岸のこと。
イギリス海岸
という作品の冒頭はこんな文章で始まっている。

夏休みの十五日の農場実習のうじようじつしゆうの間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事しごとが一きりつくたびに、よく遊びに行った処ところがありました。それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。

日本の中にあるイギリス海岸、それはいったいどんな海岸だろうと昔から気にかかっていた場所だった。
あまり期待はしていなかったが、その川岸は思いの他すてきな場所だった。
そこに一日中座り込んでいたいような、水面を眺めているとそれだけで何か豊かなものが満ちてくるようなそんな海岸だ。

イギリスの海岸も川岸も知らないが、ドイツの黒い森のドナウ川の源や、スイスのウルム聖堂のてっぺんから眺めたドナウ川の豊かな流れなら覚えがある。大地の中を走る水の流れ、川岸には柵もコンクリートもなく、自然なままの川土手と川岸の植物が続くだけの川と似ていると思った。

Tさんは、お握りまで作って持ってきてくださっていたので、幸いな事に、わたし達はこの豊かな川岸でピクニックをすることができた。
敷物も、お手拭も、そしてりんごも用意してくださっていた。
そのお握りとりんごのおいしかった事。
わたしはりんごをまるのままがりがりとかじったので、たりたさんは歯が丈夫なんですねとTさんから驚かれてしまった。虫歯持ちで痛み止め持参の旅だったのに、そんな事も忘れてしまうほどだったのだ。

賢治の墓や記念碑のある花巻駅周辺はまだ回ってはいなかったが、どうしても小岩井農場へは行きたかったので、花巻市はこれで切り上げ、小岩井農場へと向かった。

すっかり観光地になっている小岩井農場だが、Tさんは昔ながらの農場の面影が残っている場所へと案内してくれた。賢治が何度か訪れた小岩井農場の試験場の建物や、岩手山や賢治の童話に出てくる狼野森が見える、小岩井工場側の雪野原。
雪野原は黒々とした狼野森まで続いている。これはまさしく童話「雪渡り」の景色。
「堅雪かんこ、しみ雪しんこ」、雪ぐつをキックキックといわせながら雪野原を歩いている四郎とかん子のが見えるようだった。
そう、この景色こそ、わたしが見たいと願っていた景色だった。





もう時間はあまり残っていなかった。この日の内に秋田に住むネット友のスSのところへ行くのだから、午後3時1分発のいわて銀河鉄道に乗る予定なのだ。
Tさんが盛岡駅まで連れて行って下った。改札口のところで名残を惜しみ、すでにホームで待機している電車に乗り込んだ。

<写真は小岩井農場から眺めた岩手山>


たりたくみ |MAILHomePage

My追加