たりたの日記
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2007年03月02日(金) |
旅支度の途中で 「小岩井農場」を読む |
いよいよ明日から陸奥ひとり旅。 今日は一日準備にあてている。 トレッキングシューズに防水スプレーを塗り、 ザックにスッパッツやら雨具やら新しく買った防寒手袋を詰め込むといった作業が必要なのだが、 わたしときたら、それを途中にしたまんまで 宮澤賢治の詩集をめくり、「小岩井農場」などを読んでいる。
賢治の詩に出会ったのはもうはるかに昔、中学生の時だった。 小岩井農場という言葉の響きとその詩の情景がずっと心に残ってきた。
あさっての午後にはわたしは蒲公英さんとそこ、小岩井農場にいる。 ネットで知り合った盛岡にお住いの蒲公英さんが、賢治めぐりにお付き合い下さると言ってくださったのだ。 賢治の生まれた家や賢治が土地の人に農業を教えていた羅須地人会の建物。 イギリス海岸にも行けるといい。 小岩井農場から岩手山が見えるといい。 この始まったばかりの春の中を 初めて出会うことになる友と歩けるのはいい。
*
<そして寝る前に「小岩井農場」を読む>
その後、大きなザックの荷物を詰め込み、地図やガイドブックをおさらいし、掃除もし、花々には水をたっぷりとあげ、mGにえんりぎとトマトとほうれん草入りのカレーを作りました。
朝読んだ「小岩井農場」はパート一からパート九まである長い詩です。朝は1と2だけしか読んでいなかったので、ワインといっしょにお風呂に入りながら残りの詩を読みました。 「小岩井農場 パート九」いいです。 胸を突かれるような、このすきとおった哀しみ・・・賢治の言葉にだけ起こる独特な気分があります。
さてさて、明日は5時起床。ワインはボトルの半分も飲んだというのに、少しも眠くはなりませんがともかく、おやすみなさい。
小岩井農場 ( パート一 )
宮澤賢治「春と修羅」第一集より
わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ
けれどももつとはやいひとはある
化学の並川さんによく肖(に)たひとだ
あのオリーブのせびろなどは
そつくりをとなしい農学士だ
さつき盛岡のていしやばでも
たしかにわたくしはさうおもつてゐた
このひとが砂糖水のなかの
つめたくあかるい待合室から
ひとあしでるとき……わたくしもでる
馬車がいちだいたつてゐる
馭者(ぎよしや)がひとことなにかいふ
黒塗りのすてきな馬車だ
光沢(つや)消(け)しだ
馬も上等のハツクニー
このひとはかすかにうなづき
それからじぶんといふ小さな荷物を
載つけるといふ気軽(きがる)なふうで
馬車にのぼつてこしかける
(わづかの光の交錯(かうさく)だ)
その陽(ひ)のあたつたせなかが
すこし屈んでしんとしてゐる
わたくしはあるいて馬と並ぶ
これはあるひは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
あすこなら空気もひどく明瞭で
樹でも艸でもみんな幻燈だ
もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
野はらは黒ぶだう酒(しゆ)のコツプもならべて
わたくしを款待するだらう
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
(あいまいな思惟の蛍光(けいくわう)
きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
(これがじつにいゝことだ
どうしやうか考へてゐるひまに
それが過ぎて滅(な)くなるといふこと)
ひらつとわたくしを通り越す
みちはまつ黒の腐植土で
雨(あま)あがりだし弾力もある
馬はピンと耳を立て
その端(はじ)は向ふの青い光に尖り
いかにもきさくに馳けて行く
うしろからはもうたれも来ないのか
つつましく肩をすぼめた停車場(ば)と
新開地風の飲食店(いんしよくてん)
ガラス障子はありふれてでこぼこ
わらじや sun-maid のから凾や
夏みかんのあかるいにほひ
汽車からおりたひとたちは
さつきたくさんあつたのだが
みんな丘かげの茶褐部落や
繋(つなぎ)あたりへ往くらしい
西にまがつて見えなくなつた
いまわたくしは歩測のときのやう
しんかい地ふうのたてものは
みんなうしろに片附(づ)けた
そしてこここそ畑になつてゐる
黒馬が二ひき汗でぬれ
犁(プラウ)をひいて往つたりきたりする
ひわいろのやはらかな山のこつちがはだ
山ではふしぎに風がふいてゐる
嫩葉(わかば)がさまざまにひるがへる
ずうつと遠くのくらいところでは
鶯もごろごろ啼いてゐる
その透明な群青のうぐひすが
(ほんたうの鶯の方はドイツ読本の
ハンスがうぐひすでないよと云つた)
馬車はずんずん遠くなる
大きくゆれるしはねあがる
紳士もかろくはねあがる
このひとはもうよほど世間をわたり
いまは青ぐろいふちのやうなとこへ
すましてこしかけてゐるひとなのだ
そしてずんずん遠くなる
はたけの馬は二ひき
ひとはふたりで赤い
雲に濾(こ)された日光のために
いよいよあかく灼(や)けてゐる
冬にきたときとはまるでべつだ
みんなすつかり変つてゐる
変つたとはいへそれは雪が往き
雲が展(ひら)けてつちが呼吸し
幹や芽のなかに燐光や樹液(じゆえき)がながれ
あをじろい春になつただけだ
それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね
すみやかなすみやかな万法流転(ばんぽうるてん)のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起(けいき)するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう
ほんたうにこのみちをこの前行くときは
空気がひどく稠密で
つめたくそしてあかる過ぎた
今日は七つ森はいちめんの枯草(かれくさ)
松木がおかしな緑褐に
丘のうしろとふもとに生えて
大へん陰欝にふるびて見える
( パート九 )
あめにすきとほってゆれるのは
さっきの剽悍(ひやうかん)な四本のさくら
わたくしはそれを知ってゐるけれども
眼にははっきり見ないのだ
たしかにわたくしの感官の外(そと)で
つめたい雨がそそいでゐる
(天の微光にさだめなく
うかべる石をわがふめば
おゝユリア しづくはいとど降りまさり
カシオペーアはめぐりゆく)
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張って
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
……………はさっき横へ外(そ)れた
あのから松の列のところから横へ外(そ)れた
《幻想が向ふから迫ってくるときは
もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははっきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまっ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
《あんまりひどいかんがへだ》
わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
ひとはみんなきっと斯ういふことになるのだ
きみたちにけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになって遁げなくてもいいのです
(ひばりが居るやうな居ないやうな
腐植質から麦が生え
雨はしきりに降ってゐる)
さうです 農場のこのへんは
まったく不思議におもはれます
どうしてかわたくしはここらを
der heilige Punktと
呼びたいやうな気がします
この冬だって耕耘部まで用事で来て
こゝらの匂のいゝふぶきのなかで
なにとはなしに聖いこころもちがして
凍えさうになりながらいつまでもいつまでも
いったり来たりしてゐました
さっきもさうです
どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は
《そんなことでだまされてはいけない
ちがった空間にはいろいろちがったものがゐる
それにだいいちおまへのさっきからの考へやうが)
まるで銅版のやうなのに気がつかないか)
雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです
あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいっぱいな野はらも
その介殻のやうに白くひかり
底の平らな巨きなすあしにふむのでせう
《もう決定した そっちへ行くな
これらはみんなただしくない
いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
発散して酸えたひかりの澱だ
ちいさなわれを劃ることのできない
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といっしょに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたったもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまで進んでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この変態を性慾といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従って
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
畢竟わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
そしていくら恐ろしいといっても
それがほんたうならしかたない
さあはっきり眼をあいてたれにも見え
明確に物理学の法則にしたがふ
これら実在の現象のなかから
あたらしくまっすぐに起て
明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに
馬車が行く 馬はぬれて黒い
ひとはくるまに立って行く
もうけっしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまってゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲哀とを焚いて
わたくしは透明な軌道をすすむ
ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかっきりみちをまがる
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