たりたの日記
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昨日、ゼミで高橋たか子の「ロンリー・ウーマン」の読書会があった。 昨日までの2週間というもの、それはそれは高橋たか子の小説やら評論を読んで、なんだか頭が酸欠状態のようにフラフラしている。 もう、今日を限りにしばらくは読まないと思っていたのに、今日はまだ読んでいた。
昨日は「ロンリー・ウーマン」についていろいろな話を聞くことができておもしろかった。こういう作品についての意見というのは、その人そのものの傾向みたいなものがくっきりと分かるので、個々の発言そのものが興味深かった。 予想通り、肯定的な感想は少なかった。でもゼミそのものはいろいろな意見が出て盛り上がったから、このテキストは悪くなかったのだろう。 どの方も高橋たか子は初めて読んだと言っていたから、紹介することができて良かった。好き、嫌いは別として。
今回のゼミを通して、わたし自身には大きな発見があった。土曜日に日記にアップしたレポートの最後の章「欠乏」そして「空洞」。 ドイツの神学者カール・バルトが言っていることを通して、わたしがなぜ高橋作品が好きかということが分かった。また好きだと思うものにひとつの傾向があるのだが、それらが何に由来するのかということも。 気持ちが通じる人間とそうでない人間とも、そこのところと関係がありそうだ。この事はもう少し、考えてみたい。
レポートはかなり独りよがりなもので、評価のようなものは期待しておらず、長すぎるから嫌がられるかもしれないなとそんな気持ちで持っていったが、先生や他のメンバーの方々からは誉めていただき、素直にうれしかった。
今日読んでいた高橋たか子のエッセイ集「記憶の冥さ」に、「渇いた女・サロメ」というタイトルのエッセイがあった。高橋氏がいかにオスカー・ワイルドの「サロメ」を好きかという事が書いてあるのだが、「そう、そう・・」とわたしも思うのだ。
ところで、今年の鳥取での「尾崎翠フォーラム」は7月7日(土)〜8日(日)にあるらしいが、今年の企画は、東京女子大の近藤裕子さんの講演と、澤登翠さんの活弁付きで無声映画「サロメ」の上映ということだ。この「サロメ」は間違いなく、ワイルドの脚本の映画だろう。 ところで、尾崎翠と「サロメ」はどう繋がっていたんだっけ・・・ きっと何か関係があるのだろう。 でもここでも繋がる。翠、ワイルド、サロメ、高橋・・・
サロメ、バプテスマのヨハネの首をヘロデ王に所望した悪女で知られるサロメ、しかし、ワイルドの描いたサロメは単に悪女ではない。ちょうど高橋が描くロンリー・ウーマンのように、内なるドラマがある。 しかし「サロメ」が好きか嫌いかという事にしても二分されることは容易に予想がつく。
以前、ワイルドの原作を元にしたオペラの「サロメ」と現代劇の「サロメ」をマキさんから送っていただいたビデオで観たが、それは印象に残るものだった。(確か、ここに書いたはずだけれど・・・見つかった、去年の11月23日の日記サロメ日和 「サロメ日和」) フォーラムで上映されるという無声映画「サロメ」も見てみたい。 何より、尾崎翠に関する研究発表や講演は興味深い。夏の鳥取に出かけてゆくかな。
高橋たか子のエッセイの他には、永瀬清子の詩集と永瀬清子の書いたエッセイ「すぎさればすべてなつかしい日々」、S先生からお借りした井坂洋子著「永瀬清子」も平行して読み始めた。しばらく、この女性詩人にかかわってみるつもり。 ここにも何か繋がりの兆しが見える。
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