たりたの日記
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2007年01月27日(土)  高橋たか子著 「ロンリー・ウーマン」を読む

        
この短編「ロンリー・ウーマン」を何度目かに読んだ後、独特の充足感に満たされていることに気がついた。これほど、救いようのない、残酷ともいえる描写や、狂気にも近い病的な世界に、「豊饒」と表現したいような味わいを覚えるというのはいったいどういうわけなのだろう。
「ロンリー・ウーマン」に限らず、同様に自殺や狂気、犯罪がモチーフになっている「没落風景」や「誘惑者」といった高橋たか子の初期から中期にかけての小説にも同様な充足感を覚える。高橋作品が共通して持っている何かが、そうさせるのだろうが、それがいったい何なのか、短編「ロンリー・ウーマン」を通して考えてみたいと思う。
この作業をするにあたって、思いつくいくつかのキーワードと思えるものをあげ、それについて考えを巡らし、またこれまでに読んできた高橋たか子の文章や評論の中からその裏づけになるものを取り出してみよう。


<夢>

話は主人公の咲子が自分の夢の中で、長い呻き声をたてているのを、ぼんやりと意識するところから始まる。この呻き声はからだの奥の、どこか茫漠としたところから出てくるというのである。わずかに5行ほどの文章だが、その夢の描写は巧みだ。その何とも表現し難い、夢と現実の狭間で起こる現象を、的確に表現している。
さて、この茫漠という言葉は高橋氏がよく使う言葉だが、この物語の冒頭で、読者の意識は表層をずんずんと降りて自らの茫漠としたところへ下降してゆきはしないだろうか。ちょうど自分の夢の中に入ってゆくような具合で。
そう、高橋氏の描写によって見せられる絵は、夢の中で見る絵に似ている。どこかリアリティーに欠けるのに、妙に生々しく、そして象徴的だ。
 高橋氏の小説は私小説ではない。自分を含め、周囲にいる実在の人物をモデルにして書くようなことも一部の例外を除いてはない。外界の世界と関係を結ぶことなく、ひたすら自分の深層へ降りていってそこから汲み上げて書くという方法を取る。つまり幻想や夢が支配している場所が高橋氏の作品の舞台となるのである。当然、読者もまた作者が降りていった深層へと伴われ、そこで見える風景の中に置かれる。とすれば、読むという行為が、ちょうど夢や瞑想の中を通ってきた時と同じようなカタルシス(浄化作用)を伴うはずだ。考えてみれば、これは古今東西の昔話が共通して持つ力であり役割だったもの、それはまた文学の中で継承されるべき役割に違いない。
高橋作品を読んだ後に覚える深い充足感や意識の澄んだような感覚、何か豊饒なものは、ここにその理由があるのだろう。


<火>

咲子が目を醒ますと、消防車のサインが鳴っている。読者は夢の中の夢にさらに導かれ、<鮮やかな朱色となって、ぼうぼう蒸発していく視野>の中に置かれる。不安な、けれども美しい火は、どこか現実のなまなましさがない故に、そこに引き込まれてゆく。
咲子は<窓際で迫ってくる火勢に見惚れている>。火を眺めながら、<切実さと、動こうとしない自分と、そのちぐはぐな二つがある。>、この場面は火の柱や火の粉などの視覚的な描写と合間って、美しく官能的だ。官能美、これもまた高橋作品の魅力だ。
この作品を通して火という文字が乱舞しているような印象がある。その文字だけ数えてみると60個に及ぶ。火という活字が出てくる度に、そこにぽっ、ぽっ、と火が起こる。不思議と熱さのない冷たい火だ。その火のイメージはこの作品全体にエロスの煌きのようなものを与えている。この火のイメージも高橋作品に特徴的で、「没落風景」の最後の部分にも、主人公の姉が放火し、その火を呆然と見つめる場面があるし、「誘惑者」では<死ぬなら、煮えたぎっている火にむかって垂直に墜落していく火山がいいこと・・・>といった火への執着が繰り返し描写される。
バラシュールは『火の詩学』の中で、火はいっさいの精液の原理であり、火とはいわゆる身体ではなく、女性的物質に生気を与える男性的原理であることを指摘している。また火は楽園で光輝くとともに地獄に燃える業火であり、煮炊きする火であると同時に黙示の火でもあり、安楽と尊崇、正と邪の神、神であると同時に悪魔的な性格を持つという。( 長谷川啓著「誘惑者」を読む―内部の魔への凝視/「高橋たか子の風景」 ) 
ロンリー・ウーマンの中で用いられている火はそうした火の持つシンボリックなものを内包していると感じる。
またこの火のイメージについて、高橋氏は「神は火」というエッセイを次のように結んでいる。高橋たか子らしい神理解だと思う。

<燃える火が邪魔なものをすべて焼きつくしていかれる。終局において、火そのもののうちに入って、火と合一し、至福になるように、と。
この世にいるかぎり、終局ということはないけれども、自分の内にある邪魔なものが焼かれていく試練ごとに、炎がはためき出て、至福の分け前をいただく。 >                                                        
         ( 高橋たか子著 エッセイ集「水そして炎」)


<渇き>

この咲子の住む地域には五十二日も雨が降らず、空気がカラカラに乾いているというのだ。この短編を通じて、この乾燥した天気を表わす描写が執拗に繰り返される。ざっと数えて30回は出てくる。そして、この「乾き」は空気の乾きに留まらない。作品の後半では咲子はしきりに「喉が渇く」と訴えるのだ。いつのまにか空気の「乾き」が心の「渇き」へ移行していることに読者は気づく。
この作品の中で「渇く」という言葉は重要な意味を持つ。この「渇き」こそが、この作品のテーマだと言えるだろう。
「渇く」ということは「水」を求めるということ。内的渇きであれば、それを潤すものを求めるということになる。「ああ一滴の水」、「水を一杯いただけませんか」という言葉がシンボリックに響く。作者自身が自分の内面に非常な「渇き」を覚え、それを主人公の咲子に語らせているのだ。ここでの「喉が渇く」という訴えはそうとしかと言えないような切迫したものを含んでいる。
この「渇き」という概念は、あらゆる高橋作品の底流にある。例えば、「没落風景」の最後の部分、放火した彌生が竹藪の炎上を見つめながら言う言葉 <だが、これほどの炎上によっても充たすことのできないものを、彌生は自分の中に意識した。渇いている、渇いている、何処まで行けばいいのか。彌生はそう呟いた。>
高橋作品の「渇き」に接する度に思い起こされるのが新約聖書ヨハネ福音書4・13〜15の、井戸に水を汲みに来たサマリヤの女とイエスとの対話だ。
       
<サマリヤの女とイエスの対話である ヨハネ福音書4・13〜15 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」 は、私のすべての小説の全体にわたって鳴りひびいていると言ってもいい。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く」という「この水」を飲むことしか知らずに、渇きつづけていた受洗に至るまでの私、受洗後もまだ「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」という「その水」の在り処がわからず、渇きのやまなかった私が、あれほど小説を通して渇きを乱舞してきたというのに、今、もう渇いていない私がここにいる。>    
( エッセイ「受洗の頃」/高橋たか子自選小説集第一巻、巻末)

ところでこの短編が書かれたのは1974年の6月。同じ年の11月頃、高橋氏は遠藤周作の紹介で井上洋治神父のところに通うようになる。そして翌年、「誘惑者」執筆の最中に洗礼を受けている。洗礼名はマリア・マグダレナ。七つの悪霊をイエスから追い出してもらった娼婦、生涯イエスの弟子としてその側を離れることのなかったマグラダのマリアのこと。


<焼かれる幼児>

放火の犯人が小学校を狙っているという事実に咲子は惹き付けられる、そして幼児が火に焼かれるというイメージを繰り返し描くのである。そのイメージの描写は7箇所に渡って出てくる。
なぜ犯人は放火したのだろうという問いに対して咲子は警官に向かって<放火犯は幼児たちを焼き殺したかったのだ>という犯人の犯行の理由を語る。それは、咲子自身の内なる告白でもあるのだろう。これは悪意に満ちた、残酷で悪魔的としか言いようのない表現だ。しかし、なぜ幼児なのだろう。なぜ幼児を焼き殺したいという衝動を咲子は持つのだろう。
この作品の中には、<闇の底に、産み落とした胎児が息づいているかのような、そんな危うさが、強く意識された>という表現も出てくるが、咲子には胎児や幼児への嫌悪感があると感じる。それは生命そのものへの否定のようにも感じられるし、また、母性の否定、母性への嫌悪とも受け取れる。
高橋氏は他の作品でも、自分の娘を嫌悪する母親(「相似形」)や、友人から赤ん坊を盗み、その子を精神的奇形に育てようとする女性(「空の果てまで」)など、母性の欠如や子どもに対する悪意のようなものを様々に形を変えて書いているが、母性への嫌悪や敵対のようなものが作者本人の中にあるように思う。それは、産む性を持つ女そのものへの嫌悪なのかもしれない。そして、その嫌悪は他ならず、女である自分自身へ向けられている。
わたしは高橋作品に登場するこうした悪意に満ちた女性たち、またこの作品の中で、古新聞の記事の中に示された、<荒廃したものとなまなましいものとの奇妙な混淆>を共通のしるしとする「ロンリー・ウーマン」たちに愛着やシンパシーを感じる。それは自分自身の中に同様なもう一つの女を認めるからだ。そして作者がそういう内なる女を裸で晒し、断罪すると同時に開放しようとしている、嘘のなさ、潔癖さを感じる。

高橋氏は「性―女における魔性と母性」の中でこのように語っている。
<女には魔性の女と母性の女、娼婦と母、この二通りのタイプがあると分類したのは男性である。しかし私には、二通りのタイプとは思われない。たまたま何かによって自分に目覚めた女が魔性の女なのであり、目覚めない大多数の女は魔性の部分を生き埋めにさせたままでいるだけなのである>
          (エッセイ集「記憶の冥さ」/人文書院 )


< 罪 >
 
咲子は放火犯に並々ならぬ興味を持つようになった末、自らを放火犯人に仕立て上げるような行動に出る。咲子の抱くような、犯人が自分であってもおかしくはない。もしかすると自分かもしれないという心の傾きは誰にでもあるものなのかもしれない。法的には罰せられる事がなくても、人は自分の悪意や罪といったものを自覚し、それを重く感じているのだろうから。そして、どこかでその罪の意識を下ろしたいと無意識の内に感じているのだろうから。しかし多くの人間は自分の罪を隠そうとこそすれ、犯さないでいる内面の罪のために罰を受けようなどとはしない。ところが、咲子は自分を犯人に仕立て上げようとする。これは自己破壊衝動なのだろうが、その衝動を行動に移してしまう。読者は不安な気持ちと、なぜという疑惑を抱いて咲子の行為を見守る。
しかし、そこには、咲子が自分であるかのような錯覚もおこる。夢の中ではそんな自分が現れないだろうか。
咲子はその事を終えた後、<なぜかほっとして、自分の部屋へ戻り、それから熟睡した>とあるが、それは自らが加害者となり、法的な犯罪者の立場に身を置くことでひとつの贖罪を得、開放されるということを暗示しているのだろうか。
このことで、作者が語っている言葉に興味深いものがある。

<自分が犯しもしなかった罪ではるが、犯しもしなかった故に自分しか知らない自分の罪というものがある。さらにまた、犯しもしなかったので、自分の中にそれがあるとは知らなかったが、小説を書くことによってはじめて潜在意識から原稿用紙の上へと顕現してきた罪というものがある。そういう一切を、私は読者にではなく、絶対者にさしむけているのだ、という気がするのである。
(中略)
一般に作家というものは神にむけて書いているのだろう。キリスト教の神でなくとも、自分の内なる神にむけて書いているのではないか。>
             (「悔悛の文学」「文芸」1997年2月号)


< 悪魔 > 
 
 物語の最終部、咲子が自分が犯人であるという偽装をした翌朝の描写と、刑事が咲子に向かって歩いてくる描写の間に、少し違ったトーンでこの作品の中で、挿入されている箇所がある。そのまま引用しよう。
 < この晴天続きの単調さの只中から、一人の放火犯がむっくり頭をもたげる。陰湿な、凶悪な、そんな人間ではない。青い油絵の具を原色のまま塗りこめたような、この青さそのものの空から、鋏で切り取られたとでもいうような、一つの意思が生じ、地上に偏在しはじめる。そいつが、いつまでも雨の降らない人々のなかに、そっと忍びこむ。そいつは人々と共に呼吸する。ちょっとしたきっかけで、そいつは人々の内部から飛びだし、実行してしまう。だが、そいつは、何処にもいない。>
これは悪魔そのものの描写だ。なぜここに悪魔の存在を読者に知らせる文章が挟まれているのか。これはひとつの暗示なのだろう。この咲子の行為を促すものとして作者は悪魔を登場させたのだろう。
高橋作品には、人間の潜在的な悪はもちろん、そこに入り込み、それを潜在的なところから実際の行為へと促す「悪魔」の存在が見え隠れする。
 上記の記述にあるように、罪を犯す小説の登場人物達は、けっして凶悪な人間ではない。普通の社会人であり母であり子である。ところがある時、何かのきっかけから、ひょいと悪魔が入りこむ。悪魔はその人間を破滅させる方向へ突き動かしていく特性を持っている。何かに渇いた人間が、その渇きを癒す水を得られずにいる時に、そこを狙うかのように巧妙に入り込んでくる悪魔の存在。
 その悪魔の記述の後の咲子の描写は、咲子が悪魔に捕らえられた事を暗示しているかのようだ。<咲子は薄ら笑いを浮かべながら、刑事にむけて一直線に歩いていった>
< 哄笑が咲子の喉もとに突あげてきた> <見張るって・・・・? もうあなたの手には負えなくなったようですよ> <私一人だけではなく、隣の婆さんまで狂いだしたからです、と告げたかった。> と咲子の言葉の中に荒廃した「破れ」が見える。
 
 澁澤龍彦・矢川澄子夫妻と交友があった高橋氏は、澁澤氏から「悪魔学」の影響を受けている。「ロンリー・ウーマン」を書いた時点では、悪魔こそが絶対的なものであったのかも知れない。「誘惑者」の中で主人公哲代にこう語らせているからだ。
 「存在するものは悪魔なのであり、存在しないものは神なのだわ。悪魔が神のアンチ・テーゼなのではなくて、神が悪魔のアンチ・テーゼなのよ。
悪魔が存在するからこそ、神というものが希求されるのだわ。」


<「欠乏」そして「空洞」>

この作品は作者が存在する悪魔を目の前にして、存在するとも分からない神へ向かって、激しく「渇き」を訴える人間の魂を描いた作品と言える。小説はここまでで、その「渇き」が宙に浮いたまま不安の中に取り残されるが、作者自身は自分の分身ともいえる咲子を悪魔の掌中に落とすことで、そこを通過するのである。その深淵としか呼びようのないところで高橋氏は神と出会っている。
ここで思い起こすのは神学者、カール・バルトの言う「欠乏」そして「空洞」だ。以下の文を富岡幸一郎著「悦ばしき神学―カール・バルト『ローマ書講解』を読む」から引用する。

<神の道において出会うということはどういうことか、ということについてバルトは、こう述べています。出会うということはどういうことか。お互いにとって何者かである、ということである。それでは、何によって他の人にとって何者かでありうるのか。それは、その人の「内面の豊かさ」によってではないし、およそ、その人が「現にあるところのもの」によってではない。「現にないところのもの」によってなのだ。そう、バルトは言うのです。その人の内面が豊かで、それを表に出すと、他の人が近づいてきて、出会う、そういうものではない、ということです。
「現にないところのもの」とは何か、「欠乏」です。そして「欠乏」していればこそ、それが満たされるべきものとして、「嘆き」と「望み」の形をとって姿を現すのです。この「欠乏」は、またここで「空洞」と表現されているものと関連しています。この「欠乏」「空洞」を見ることができる人間こそ、神の道において出会えるのです。>

この物語の咲子を含む、ロンリー・ウーマンとは、「渇き」を叫び、「欠乏」し、「空洞」を見ている女たちである。ここにわたしが高橋作品の女達に出会いたいと思う理由がある。自分の中の「欠乏」「空洞」を確認したいのだ。常にそこへと自分を位置づけるのでなければ、わたしは神と出会う道を見失ってしまうだろうから。
                        

                                                   
―参考文献―

< 高橋たか子著作 >
連作長編小説「ロンリー・ウーマン」 集英社文庫 ( 解説 松本徹 )
自選小説集全第1巻/講談社
長編小説「没落風景」 新潮文庫(解説 上総英郎 )
小説集 「彼方の水音」 講談社文庫( 解説 平岡篤頼 )
自選エッセイ集「どこか或る家」講談社文芸文庫(解説 清水良典) 
エッセイ集「「水そして炎」/女子パウロ会
エッセイ集「記憶の冥さ」/人文書院

<評論>
「神と出会う―高橋たか子論 」 山内由紀人著/書肆山田
「高橋たか子の風景」 中川成美・長谷川啓編/彩流社
「内なる軌跡 7人の作家達 」 上総英郎著/朝文社

<その他>
聖書 / 日本聖書協会 ( 新共同訳 )
「悦ばしき神学―カール・バルト『ローマ書講解』を読む」 富岡幸一郎著/五月書房



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