たりたの日記
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2006年12月11日(月) |
カフカの「アカデミーへの或る報告書」を読む |
今日は文学ゼミに出席する。 テキストはカフカの「アカデミーへの或る報告書」
本書はこのように始まる 「アカデミーの会員諸君! わたしは光栄にも諸賢から、私の生涯の前半をなす猿の時代についてアカデミーに報告書を提出するよう要求されました」
つまり、猿による人間への学会報告がそのすべて。 この猿はアフリカで自由な猿の日々を送っていたところ、突然人間に捕らえられ汽船の甲板の狭い檻に閉じ込められる。
ここの経緯は子ども達に人気のロングセラー絵本、「おさるのジョージ」にそっくりだなと、あの絵本のシーンを思い浮かべながら読み進める。しかし、この物語は子どものためにストーリーではないから、子ザルを友人として保護してくれる優しい<黄色い帽子のおじさん>は登場しない。
この捕らえられた猿は初めて<出口がない>という事態に直面し、たった一人で<出口>を得るべく様々に思考し、行動する。実に頭のいい猿なのだ。むしろ自由の中にあって自由の意味も考えたことのない人間、あるいは不自由であるにもかかわらず、自分は自由だと勘違いしている人間よりもよほど物事が分かっている目覚めた猿だ。
この猿の独白を聞いていると、人間という生き物がいかに他の生き物の中で我が物顔でふんぞり返っているか、その一方で人間以外の生き物が軽んじられ、その自由さえも簡単に奪われてしまうか、猿の悲哀や憤怒がわが身に乗り移り、まるで、自分がこの猿であるかのように語り口調が熱を帯びてくる。
そう、そう、わたしはこのテキストを声に出して読んだ。というよりは演じてみた。手塚氏による翻訳の言葉は、思わず声に出して読ませるような流れるような心地良いリズムがある。それに加えて、表現が大げさで実に芝居じみているのだ。もう、これは独り芝居の脚本として演じることを楽しむしかないと、学ぶことをあきらめただただ楽しんだことだった。 怒り、失望、不安、さまざまな感情がくっきりと表れているから芝居にはうってつけ。しかも、先にも述べたが、その語り手に容易に感情移入でくるという不思議な魅力を持つ語り口だ。
ここで語れられている猿の側からの独白の中身というのは、このカフカの時代にあってはいざ知らず、今の世の中にあっては、何の新しさも発見もない。形を変えながら、すでにどこかで繰り返し語られてきたような内容に感じられる。 そこにはカフカのユダヤ人としての生き難さや屈折した想いも潜在的なものとしてあるのだろうが、カフカがこの作品を持って、そういった差別の図式を社会学的な方向から示唆しようとしたかどうかは分からない。 それよりは、皮肉をたっぷり含み、風刺とユーモアのセンスの効いた、しかも実存的な言葉が随所に散りばめられていて知的欲求をも適当に満足させてくれるエンターテイメントという風にわたしは読んだ。
いつものように、ゼミでは三者三様の読み方や感じ方がおもしろかった。自分には読み取れていなかったところが見つかったり、考えても見なかった事が指摘されたりと勉強になった。
さて、ところでヒト科のわたしは自由なのだろうか。 自由な身でありながら好き好んで拘束されている不自由な自分が見えてくる。ヒトであるが故の不自由さ。 出口はアフリカのいた頃のその猿のようにいくつもあるようには思えない。日頃気づかないでいた閉塞感が妙に強く感じられたりする。あの猿ではないが、自分の出口を確保しておくのでなければ。 ではわたしにとって出口とは・・・。 こうして果てしなく疑問が広がってゆくことがひょっとしてカフカを読むことのおもしろさなのかも知れない。
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