たりたの日記
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2006年09月27日(水) |
自らの心と語り、そして沈黙に入れ |
夕礼拝では詩編をテキストにしている。 昨夜は4回目の礼拝だったから、詩編4編が読まれ、また語られた。
この詩編の端書には <指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。> とある。つまり、これは竪琴などの楽器の伴奏に合わせながら歌われる歌だったということだ。 ダビデの時代には音を記述する楽譜が存在しなかったから、歌は口承で伝えられた。そして、その歌の節はどこかで途絶え いえ、もしかすると、どこかで誰かによって今も伝えられ存在するのかもしれないが、わたしたちがそれを歌うことも耳にすることも今はない。
しかし、この詩を歌として読む時、なんとまっすぐな想いを歌っているのだろうと驚く。 誰に向かって歌うのか、その方向がしっかりと定まっている。 神というその一点に焦点が絞られているのだ。 この歌、そのものが祈り。
そこには詩人の日々の苦悩があり、悲哀があり、叫びがあり、 その想いをすべて神の元へと歌声と共に放つ。 自分の正しさを神だけは知っている、 この苦悩から解き放ってくれるのも唯一神だ。 という揺ぎのない確信を持って。
この詩人の前には敵があり、 その敵は神を認めようとしない。 その相手に、詩人は呼びかける
―おののいて罪を離れよ。 横たわるときも自らの心と語り そして沈黙に入れ―
わたしの好きなフレーズだ。
「自らの心と語り、そして沈黙に入れ」
夕礼拝は静かだった。 夜の帳の中では言葉も歌う歌もまた違った響きを持つ。
詩編 第4章 ( 指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。) 呼び求めるわたしに答えてください わたしの正しさを認めてくださる神よ。 苦難から解き放ってください。 憐れんで、祈りを聞いてください。
人の子らよ いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか むなしさを愛し、偽りを求めるのか。 主の慈しみに生きる人を主は見分けて 呼び求める声を聞いてくださると知れ。 おののいて罪を離れよ。 横たわるときも自らの心と語り そして沈黙に入れ。 ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。
恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。 主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。 それにもまさる喜びを わたしの心にお与えください。 平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。 主よ、あなただけが、確かに わたしをここに住まわせてくださるのです。
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