たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2006年09月29日(金) |
「 熱海殺人事件 」を読む |
人はなぜ人を殺すのか。 そこに至る動機は何か。 その事件の向こう側にはどんなドラマが潜んでいるのか。
人が人を殺すというおぞましい出来事をつかこうへい氏は繰り返し舞台に乗せる。誰もがかかわるまいとするその事実は、同時に誰もが知りたい事。彼はそんな観客をたくみに事件に引っ張り込む。そうしておいて、我々が新聞やテレビ、あるいはワイドショーなどで知らされる犯人やその周辺の報道とは異なる視点から、彼の芝居でしか見ることのできないような奥の深いドラマを見せてくれる。
「熱海殺人事件」は、初期のつかこうへいの代表作で、文学座 アトリエ公演台本は、1974年度岸田戯曲賞受賞作を受賞している。その後この脚本は「水野朋子物語・熱海殺人事件」「新・熱海殺人事件」「熱海殺人事件・ザ・ロンゲスト・スプリング」「熱海殺人事件・売春捜査官」「熱海殺人事件・モンテカルロ・イリュージョン」「熱海殺人事件・サイコパス−木村伝兵衛の自殺」「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事」といった具合に、その時の事件や社会問題を織り込みながら、30年間、時代によって、またやる役者によってさまざまに形を変えてきた。
ここではゼミで取り上げられた文学座・アトリエ公演台本の「熱海殺人事件」の脚本を読み深めていこうと思う。 舞台は警察の取り調べ室。ベテランの部長刑事(伝兵衛)、新しく赴任してきた若手刑事(熊田)、婦人警官(ハナ子)のところへ、女工(アイ子)を殺してしたとされる容疑者の工員(金太郎)が連れてこられる。 部長刑事が自らに課した使命は犯人に自供させることではない。これといった理由も動機もなく側にあった腰紐で女工を殺した工員から、殺すに至った必然性、隠れた動機を何としても引き出すという事だった。引き出すものがなければ、でっちあげようというほどの意気込みだ。
部長刑事は長年扱ってきた事件と同様、「新聞の隅に3行どまりで書かれる事件ではなく、心理学者の2,3人も新聞紙上に引っぱり出す」ほどのインパクトのある犯罪にしたてようと目論むのである。その使命を果たすべく、容疑者を脅したりすかしたりするのだが、犯人として貶めようというのではなく、りっぱな犯罪者として名を残してやろうという奇妙なヒューマニズムが滲み出ていて笑える。 はじめは批判的だった若手の新任刑事はその部長の真意が分かると、とたんに協力的になり、意気投合する。やがては工員も思わず犯行を認め、部長の意志に副うべ、りっぱな犯人となる道を志す。
観客は二人の刑事と婦人警官が、ひとりの貧しい工員をヒーローにしたてようと悪戦苦闘する姿に笑いながら、しかし自ずと人間の真実に触れ、シリアスな問題の中に投げ入れられる。貧困が人にもたらす重圧、社会的の底辺にある人間の空しさ、差別や偏見を受ける者の痛み、、不均衡を生み出す社会の構造といった問題を目の前に突きつけられる。脚本を読むだけで、その生々しさが身に迫ってくるのだから、舞台にあってはどれほど揺すぶりをかけられることかと思う。
またここでは、その当時、しばしば問題にされていた、密室での取り調べ、国家権力によるでっちあげが絶妙な按配でパロディにされている。笑いの中に仕組まれた告発、体制への批判。これはシェークスピアの時代から演劇が担ってきたひとつの重要な役割だと思うが、そういう意味ではこの脚本は、今という時代の中で、本来芝居が担ってきた役目を果たそうとしている事が伺われる。
ところで、この「熱海殺人事件」がいったいどういうきっかけで生まれたのか、つか氏自身がインタビューに答えて語っていることは興味深い。
<「つかこうへいの新世界」より抜粋>
「ある新聞の記事に載っていたことがきっかけなんだよ。田舎町で起きた連続放火事件。立て続けに起きる事件の犯人はその町の消防団員だったという事件なんだ。街ではめったに火事など起こりはしない。しかし自分は消火活動にいそしむ姿に夢をいだいて団員になった。現実に失望し、火事がなけりゃ、自分で火をつけて、それを消しにいけばいいんだという結論になる。彼はサイレンを鳴らし夜の街をかけぬけ、消火する快感を覚えた訳だな。火事がなければ、自分で火をつけて消す消防士がいる。だったら事件がないから自分で事件を作り上げて一流の犯人を送り出してあげる刑事がいたっていいんじゃないか。それがこの『熱海』のポイントだよな。」(以下略)
この演劇はとても分かり安い。悩みつつ観るといった芝居とは違う。つか氏自身は、いわゆる西部劇の構造を採って、できるだけ観客がわかりやすく入り込みやすく観られるように、芝居の構造を簡単に捉えられるようなものとしたと語っているが、どんな人でもおもしろく観ることができる芝居という娯楽性から離れてはいない。 ところが芝居の最後の部分はどうもよく分からなかった。取調べを終えた部長刑事が捜査の結果を警視総監督に電話で報告するという設定なのだが、実は部長がかけた電話はどうやら番号違いのようで、相手は警視総監督ではなく、「キチガイ」と罵しられ、電話は切られる。しかし部長刑事はその事に気がつかず、自分の思うところを延々と語りながら幕が降りる。 それまでの分かりやすい言葉と裏腹に、このモノローグの言葉使いは固く、即座に意味を把握できるような内容ではない。大方の観客の耳にもおそらくは意味がありそうでその意味を掴み難い独り言としてしか聞えないだろう。 つか氏は、小難しく、意味の掴みどころのないような独り言をどういう意図でこの芝居の最後に持ってきたのだろうか。 この事に思いを巡らしながら最後の台詞を繰り返し読んでいる時に、はっと思ったことがあった。 つか氏が社会に訴えたい事、演劇の中でほんとうに言いたい事というのは実はこの部長の独り言の中にあるのではないかと。そこに巧妙に仕込まれているのではないかと。
芝居は本とは違う、言葉はあくまで演技の中で伝えられるもので一回きり耳で受け止めることしかできない。けれども、耳当たりの良い、即座に受け入れられる言葉だけでは言い表せないものが残る。作者は、部長の独り言の中で意味深長な事を語らせながらも、それが理解される事は期待せず、上澄みの言葉の音やニュアンスだけが伝わるという方法を取ったのではないだろうか。確かにその電話の台詞からは捕り物を終えた後の部長の興奮が伝わってくる。彼が何がしかの事を強く訴えているのだということは客席に伝わり、何やら熱っぽい空気が客席を満たし、観客はその興奮と共に席を立ち、劇場の外へと押し出されて行った事だろう。 しかしその独り言はどこかにひっかかっており、後になって、あれはなんだったのかと摩擦を起こすものとして、観客の記憶に残ったのではないだろうか。そして作者は、人が活字となった脚本を読む時に改めて読み解かれる事を良しとしたのではないだろうか。
こういう推測をしたのは、つか氏のインタビューにこういう言葉を見つけたからだ。
「―いつも少し物足りないところで話を終わらせ、こんなはずじゃないんだ、もっとなにかがあるはずなんだという気持ちにさせていく。満たされないところにおいて余韻を作るという構造なんだよ。でもそれというのは一方で、作る側がもう一歩踏み込む事を放棄しているということなんだ。作り手側がやはり、その摩擦をさけよう、さけようとしているにすぎない。」 「矛盾した話になるかもしれないが、劇作家に必要なのはじっと黙って孤独に耐えるという事なんだ。摩擦すれば当然痛みも背負ってくる。その痛みや孤独に耐える事なんだ。それを癒すために同調したりすることはたやすくできることであろう。そこで踏ん張らないといけないんだ。――漢字ばっかり多くなって肩肘はった文章になってしまう。これが辛いんだ。でもこの辛さを一人でかみ締めて頑張って書いていく。見つめていくから本物の言葉が生まれてくる。そこんところで構造を作る作業を強いるんだな――」
誰からも聴かれることのない、肩肘張った独白を熱っぽく語り続ける部長は、孤独の中で摩擦を避けようとする事なく踏ん張る、劇作家、つかこうへい自身の姿を映したものではないのか。
インタビューの最後につか氏が語っている言葉は印象的だった。 そして、遅ればせながら、つか氏がこの30年間に積み上げて来た仕事を辿ってみようという気になった。
<「つかこうへいの新世界」より抜粋>
「夢は何かと聞かれれば、一組でも愛し合う男と女がいれば、地球は滅びないし、原爆のボタンを押すこともない。本当に愛し合う一組がいなくなった時、地球は滅びるだろうという壮大なテーマを描いていくことなんだと答えるな。オレの作品は時代とともに歩んできた作品だから、これからも変りつづける宿命を背負わされ続けることだと思う。 作家の才能はなにがなんでもハッピーエンドにする力だと思うんだ。現実はいまなかなかそれをさせてくれない。でもそういう現実に抗い、少しでも事件を起こそうとしている人間がオレの芝居を見て、思いとどまったというようなことになればいいと思うんだ。そのハッピーエンドの形が決まるまではまだまだ作り続けなければならないと思う。」
参考 「熱海殺人事件」 文学座 アトリエ公演台本 ( 1974年 ) 「つかこうへいの新世界」 メディアート出版 ( 2005年初版)
|