たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2006年09月17日(日) |
エッファタ ― 開け |
今日の一日
午前中教会。午後5時から7時までダンスのレッスン。その後み〜のバンドのライヴへ。
言葉―動き―音
どれも、そこには働きかけがある。 何に働きかけられるかと言えば、心に。
身体を生かすものは食物から得ることができるけれど、心を生かすものはどこから? 言葉にも、動きにも、音にも、心を生き生きと燃え立たせるエネルギーがある。それを受け止めること。 受け止めたものはすぐに力になるものもあれば、 じっくりと時間をかけて熟成してゆくものもある。
でも、たいせつなのは、エネルギーが心に入りこんで来るように、 そこを開いておくことなのだ。 閉じた心の中には何も入ってこないもの。
イエスは耳が聞こえず舌の回らない人に、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れ、言った言葉、「エッファタ!」 「エッファタ」とは「開け」という意味。当時イエスが話していたアラム語。
わたしの耳は聞えるし、目は見える。 でも、心の耳は?、 心の目は? 時に閉じている。知らない間に・・・ わたしもまた、「エッファタ!」と呼びかけられる。
「開け!」
今日の言葉を記しておこう。
イザヤ書 35:4−10
心おののく人々に言え。 「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは、葦やパピルスの茂るところとなる。
そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。
そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み 主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
マルコによる福音書 7:31−37
それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
|