たりたの日記
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2006年06月21日(水) The Chatcher In the Rye―ライ麦畑のつかまえ役


The Chatcher In the Rye 、<ライ麦畑のつかまえ役>という意味だが、邦題は「ライ麦畑でつかまえて」として知られている。

その背表紙は繰り返し見ながら、なぜこれほど有名な本を、開いて読もうとしなかったのだろうかと今思えば不思議な気がする。

すでに絶版になっている筑摩書房のアメリカ文学全集の何巻かを県立図書館からわざわざ取り寄せたことがあったが、後半に収められているジェイムス・エイジーの「家族の中の死」は、原文と引き合わせながら念入りに読み、作家の年賦のコピーまで取ったというのに、その巻の前半に収められている「ライ麦畑でつかまえて」は、サリンジャーの大きな顔写真を眺めただけで一行も読まずに返してしまった。ひどい差別待遇をしたものだと、今になってはサリンジャーに申し訳ない。

「ライ麦畑でつかまえて」にそっけなかったのは、あるいはその題名のせいであったかもしれない。ライ麦畑に隠れている女の子が男の子に向かってわたしを掴まえてちょうだい!と言ってるような甘ったるい響きがあって、これはかったるい若者の恋愛小説なのだろうと、ずいぶんいい加減な推測のもと「読まなくてもいい本」の範疇に押しやっていた。思い込みというのはおそろしい。

ではいったいなぜ、今頃になってということだが。この日記を続けてお読みの方はもうご存知だろうが、5月1日の文学ゼミのテキストがサリンジャーのナイン・ストーリーズの「バナナフッシュに最適の日」で、それをきっかけに手に入るあらかたのサリンジャーを読みまくり、一気に傾いてしまったというわけ。(5月1日の日記「バナナフイッシュに最適の日」を携えて

その後、他の本も読まねばならず、ようやく最後に残っていた「ライ麦畑でつかまえて」を読んだ次第。野崎孝さんの訳はみごとな訳で、この世界がかなり正確に伝えられていると思うが、やはり原文を読むとトーンの違い、ニュアンスの違いというものが分かる。とりわけ、当時の若者の口調や言い回しなどは、今の若者言葉を説明するのが不可能なように、そこに漂う雰囲気を日本語に置き換えることは無理なのだ。

ともあれ、この本が出版されるや当時の若者達に爆発的な支持を受け、世界中で読まれ今の若者からも読まれているその魅力が何であるのか分かる気がした。あれから55年経った今も古びることのない新しさがそこから噴出しているとすれば、この本の中に普遍性が、なにかしらの真理が織り込まれているからなのだろう。

では、いい年をしたわたしがこの本を読んでどうだったかと言えば、かなりきたのである。具体的に言えば、おいおいとむせび泣いてしまった。
主人公のホールデンが10歳の妹のフィービーに「兄さんになりたいものを言って」と言われて、「ライ麦畑のつかまえ役になりたいんだ」と言う下り、タイトルと繋がりのある言葉がようやく現れる、例の箇所で。

しかしながら、泣けてしかたがないというのに、なぜ泣けるのかその説明がどうにもつかないのだった。理由もなく揺すぶられているのだ。
敢えて言うなら、ホールデンと同じ年頃のわたしがどこかから顔を出し、わたしを無視して勝手に泣いているという具合だった。
すでにホールデンの母親の年齢になっているというのに、この本の中でホールデンの声を聞いている内に、ティーンエイジャーのわたしが、わたし自身と入れ替わってしまったのだ。

何もかもが嘘うそくさい(phoney)と、ホールデンは毒づく。我が家の少年が口癖のように言っていた「腐ってる!」と同じニュアンスの言葉なのだろか。いつの時代も、人間の欺瞞性を嫌悪する若者はいる。やがて彼らもどっぷりその中に浸って生き延びるようになるのだが、そこに飛び込む前には、あるいはあきらめる前には、そこに言い難い葛藤があるのだ。毒づき、背を向け、あるいは逃げ出す。

phoney!インチキ!、嘘くさい!腐ってる!・・・むしろその言葉を向けられる立場にありながら、わたしはホールデンの側に立って読んでいるという奇妙さ。
しかし、この本が書かれたのは1951年、わたしの生まれる前のこと。とすればホールデンはわたしの父親の世代の人という事になる。時の流れで考えれば、わたしはホールデンの次世代の人間という事になるのだ。わたしも若くはないが、この物語の中で生きているホールデンもさらに若くはない。
とすれば、この物語を読んでいる時には50歳であろうが16歳であろうが人生の中のホールデンの地点にともかく立つのであろう。

ホールデンは言う。

「ぼくにはね、広いライ麦畑で小さな子ども達が何かのゲームをして遊んでいる絵が浮かんでくるんだ。
何千という小さな子ども達なんだ。そして周りには誰もいない。大きい人間はね。つまり僕だけ。
それで僕はもの凄い崖っぷちのはじっこに立ってるんだ。そして僕が何をするかといえば、もし、その崖を越えて落っこちてしまいそうな子どもがいたら、その子をつかまえることなんだ。
子ども達は走っているから自分達がどこを走っているか分からないだろ。だから僕がどこかから現れて、その子達をつかまえてやらなくちゃならないんだ。
それが僕が一日中やる仕事というわけなんだ。
僕はただ、ライ麦畑のつかまえ役、それだけなんだ。
狂ってるよね。
でも、それがたったひとつ、僕がほんとうになりたいものなんだ。
狂ってるってことは分かってるんだけど。」 (私訳)


若さの本質に、いえ若さというのじゃなくても、人の心の奥底に、ほんとうはこうでありたいと、人間が共通して持つイメージがあり、そのイメージとホールデンの言う、「ライ麦畑のつかまえ役」が重なるのだろう。

ホールデンの訴えを書き出しながら、今、ふと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩が重なった。
「ソウイウモノニ ワタシハ ナリタイ」という切実な願い、むしろ絶望もそこに含まれる切なる願い―
そうありたいと願いつつそうなれない、そうではない自分への痛み、そうでなければとまた自分に言いきかせる、そういうもの。祈りのような―

雨ニモマケズの詩、その傷口からはいつも新しい血が流れ出しているように、ホールデンの物語もそこからは新しい血が流れ続けているのだろう。
十字架の上でイエスの血が今も絶え間なく流れ続けていることをまた想う。








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