たりたの日記
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2006年03月14日(火) オープンクラスの後で

今日はつくしんぼ保育室でやっている英語クラス、今年最後の日で、オープンクラス。
新しく完成したホールを借りてやる。
最後のクラスでやりたいことは3つ。1つはこの1年間のクラスでやってきたことを思い出しながら歌やチャンツを復習してゆく。
2つ目は、親たちに、子ども達の日頃の様子を見てもらい、できれば親子でいっしょに歌ったり、話したり、動いたりしてもらうこと。
3つ目は、Certificate of Achievement (修了証書)とごほうびのプレゼントを渡し、「よくがんばりました」とひとりひとりに伝えること。

それぞれの目標は達成できたのでこれで良しとするべきだろうが、親の反応が少し気になった。子ども達といっしょに楽しんでいる親の様子を思い描いていたのだが、表情の中に緊張のようなものがあったような気がする。子どもに怖い顔を向けている方もいて、これは何か親たちがリラックスできる活動をするのだったなと反省した。


わたしのオープンクラスの狙いは、日頃の子ども達の様子を観ていただくことだったが、もしかすると親御さんの中にはピアノの発表会のように何か完成したものを期待しておられたのかもしれないとも思う。
ピアノやバレエなどのようにひとつの音楽や踊りを完成させることで、その技量を上げていくものとは違って、言語教育はできるだけに日常の活動から切り離さないところで行っていくものだと思っている。発表を意識すると、どうしても繰り返しの「練習」や「トレーニング」をやってしまう。高学年はそれでも良いが、幼児にはこれは避けたいところ。

年中、年少児のクラスになると、嬉々として歌ったり、動いたりする子もいれば、なかなか乗らない子や、歌がなかなか歌えない子もいる。でも、そういう子が今度は絵を描きながらやる学習やアルファベットを探し出すゲームなどでは力を発揮したりする。自分の得意なところや気に入った活動から、英語に触れることができれば、それでいいと思っている。

カードを使ったゲームなどをする時、「これ、やりたくない〜、お絵かきしたい〜」という子には、「だめだよ、やりなさい」とは言わないで、「いいよ、じゃ見てて、この後でお絵かきするからね」と言う。

同じ理由で、無理に何かを覚えさせるということも避けたい。何度も歌ったり口にしたりすることで、それが自然に覚えられる子はそれでいいし、今はうまく口が回らなくても、受け止めた音やフレーズはいつか表現できる時期が来る。大事なのは、そこで出来ないからだめなんだというネガティブな気持ちを持たないこと。

でも親の立場になってみれば、他の子が楽しく歌っているのに、うちの子は歌えないでいる。他の子が動物や果物の名前を言えるのに、うちの子は言えていない。他の子がきちんと教師を見ているのに、うちの子はよそ見ばかりしている・・・
わたしもそうだったから、そういう親のイライラや落胆が伝わってくる。


長男が年少児のクラスに入園して初めての参観日。先生が絵本を読み聞かせている教室の中にわが子がいない!園庭に目をやると、ひとりだけセミを追っかけているHが見える。顔が引きつった。Hが勝手な行動をする傾向はわたしも手を焼いていたが、集団生活の中ではそうはいかないだろうと思っていたのだった。でもこのセミ取りはいつもの事だったのだろう、担任の先生はわたしの怖い顔を見て、「じゃ、みんな、ハジメを呼ぼうか、お〜い、戻っておいで〜」と子ども達といっしょに呼びかけた。
Hは捕まえたセミを手に嬉々として走ってきた。
「すご〜い、ハジメはやっぱりセミ取りの名人だね」と先生は誉め、子ども達も口々にすごいすごいというので、彼はますます得意気だった。
この時、教育されているのはわたしだなと思った。先生は何もおっしゃらなかったけれど、この時にわたしが得たものは大きかった。顔をひきつらせている自分が未熟な母親であることを自覚した。

子ども達の発達を、学習をトータルに見てゆくということ。
その子がどういう大人になってほしいか、そこのところを見ながら今のその子を大切にすること。自然な発達を歪めたり、促成したりせずに時期を待って見守ること。
親にとっても教師にとっても、このことこそが難しい。


たりたくみ |MAILHomePage

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