たりたの日記
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3月に入ってすっかり春らしくなった。 待っていたはずなのに、花見の話なども出てくると、時の進む速度に追いついていけないような持ちになる。 花々が一斉に咲いてはさっと散ってゆくように、春がすぐに終わってしまうことが分かっているからだ。
3月、4月は年度末、年度始まりで、言ってみればもうひとつの年末と年始。1年の仕事の終わりと新年度の準備でたくさんいろいろな事を抱えているような気持ちになり落ち着かない。性分だなあ。
そういう心が忙しい時に、日曜日の朝、礼拝堂の椅子に座り、奏楽、讃美歌、詩篇朗読聖書、説教、聖餐式(パンとぶどう酒をいただく)、讃美歌、奏楽というひとつの流れの中に身を置くことは自分の中心を取り戻すために必要なことだと感じている。 そこには別の時間が流れるから。 2千年前の、もっと前の。 イエスと悪魔の対決だったり、ノアの洪水の物語りだったり・・・
今日は教会暦では受難節第一主日。 福音書の箇所は荒れ野の誘惑の箇所。
他の福音書にはイエスの40日の断食の間、悪魔がやってきてイエスを誘惑する場面が詳しく語られているのだが、マルコの書いた記事は実にシンプルだ。あえて書かないというところに何かがあるのだろう。
「”霊”はイエスを荒れ野に送り出した」とあるが、この送り出したという言葉のもともとの意味は「追い出す」という意味。霊はイエスを荒野の追いやるのだ。 そこには野獣もいた。しかし、イエスは一人ではなかった。イエスの世話をやく存在としての天使が仕えていたというのだ。
「天使達はイエスにどんな世話をやいていたのでしょうか」と説教者が問う。 荒野の中に一人でいるイエスの周りを白い翼の美しい天使達が取り囲んでいる絵が浮かんで気持ちがやわらぐ。天使・・・あまり考えることもない存在だったけれど。 「天使の仕事はイエスと神との繋がりを深めることです。」と教えられる。
日常の中で天使の事を考えることはほとんどない。 神との繋がりの中で生きるということすらすぐに忘れてしまう。 人と神とを敵対させる悪魔の存在がある一方で、人と神との関係を取り持つ天使の存在があるということなのだろう。 天使・・・
何かくっきり目覚めていない自分があるな。 天使と通じ合ってる感覚に乏しいな。 こういう時に悪魔の誘惑ってあるんだろう。 悪魔はどんな手段でも取って、人と神との繋がりを引きちぎろうと機会を狙っているのだから。
この季節。天国に通じる梯子、天使がそこを上り下りするというヤコブの梯子のイメージを描いていよう。
マルコによる福音書 1:12−13
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
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