たりたの日記
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2006年02月27日(月) 井伏鱒二著 「かきつばた」 を読む 

    
                     

この作品は、広島への原爆投下という人間の歴史の中でもとりわけ重大な出来事を、そこで生活していた人々の具体的な日常に焦点を絞り、作者個人の感情や考えを差し挟むことなく、実際に作者の目の前で起こっていることを写実的に描いた作品だ。

眼の前に展開されている現実を、我々の眼は映しはするが、それぞれのフィルターを通って出てきたものはそれぞれに異なる。これまでに読んだ原爆の詩や手記、あるいは映像や絵や歌が伝えてくれたものとは異なる原爆の側面を新しく知る。
ここでわたしが新しく受け止めた事は、広島の町が地獄絵さながらの状況にある時に、
そこからいくらも離れていない福山では、人々がいかに普通の日常を送っていたかという事実に改めて触れたということだ。ということは、原爆が投下された広島以外の場所で人々は同じように、道ゆく人を呼び止めたり、帽子にひっかかった釣り針を取ったりという日常があり、広島さえも、数時間前にはこの作者の歩いている通りと同じ日常の平和の中にあったのだ。
それほど原爆投下は予測不可能な状況の中で、人間の日常の只中にまるで天災のように執行された。しかし、これが天災ではなく、あくまで我々と同じ人間がなしたという事実―。
作者はこの短編においては被害者として原爆の悲惨さを強調することもなく、また原爆を投下したアメリカを糾弾するという立場も取らず、人の暮らしを描くことで、当たり前の日常が一挙に破壊されるという可能性を暗示しているように思える。実際わたしはこの作家の眼を通して、その時そこに生活していた人々の時間に立ち合い、また投げかけられた問いかけを手に受けた。
作者が後に著す原爆文学の代表作「黒い雨」はまだ読んでいないが、この短編が、「黒い雨」とどういう関係にあるのか読みたいと思う。


ストーリーを追いながら先に述べた事を具体的に見ていこう。
話は広島の町が爆撃されて間もないころ、福島市近郊の知人のうちでカキツバタの狂い咲きを見たことから始まる。
作者はまず狂い咲きのカキツバタの絵をそこに置いたままにして、広島が爆撃された当時の昼に時間を遡る。その時、すでに重大な事(広島の爆撃)は起きていたのだが、作者も、また彼が立ち話をする人達もその現実を知らない。安原薬局の主人は「私」を呼びとめ、「おい、まッさん、帽子に釣針がついているよ」となんとも暢気な事を言う。
小林旅館の中庭には「私」が前に譲ってほしいと申し出て断られた水甕が置いてあって、水甕を自分のところに疎開させないかと持ちかける「私」に宿屋のおかみさんは「水甕なんか、疎開させなくっても結構ですよ。空襲なんか、あるものですか」と答える。
しかしこの時、下りの電車は原因が分からないまま、不通になっており、宿屋には途中で降ろされた人達が詰めかけている。そして、それが原爆投下による混乱だということが当然ながら、読者には分かっている。読者がすでに知っていることを、物語の中の登場人物達は知らないという状況を設定するのは文学的表現のひとつの手法なのだろうが、そこには独特の緊張と、痛ましさが漂う。

広島が焼けた二日後、「私」の住む福山も空襲を受け、それから一週間目に敗戦が告げられる。しかしここでもまだ「私」もまた周りの人間も原爆の真相は知らない。あくまで「空襲」であり、被爆で苦しむ人達にしても病名はなく、医者は「不思議な苦しみをする病気」「治療法のない病気」としか言いようがない。
しかし、「おい、まッさん、帽子に釣針がついているよ」と薬屋の主人が声をかけたその頃、広島にいた安原薬局の長男は爆撃に合い即死していたという事実が明らかになり、またあの時、空襲などありはしないと言った旅館のおかみの言葉は裏切られ、小林旅館の水甕は空襲で真二つに割れ、やがては粉々に打ち砕かれる。先の平和なやり取りがここに重なり、もう元には戻せない時間を突きつけられる。

最後の場面で、作者が最初に掲げたカキツバタの場面に繋がる。
最初の場面ではぽつんと水面に出た狂い咲きのカキツバタの花の描写しかなかったが、同じ情景を描いた最後の場面ではそのカキツバタの側に身投げした女の水死体が浮かんでいる。
「あのカキツバタの花、何事に脅かされて咲いたかね。」と云う「私」に木内君は
「そうか、この季節に、あんな花が咲いてやがったのか。ばかにしてやがる」と答え、「私」が思い出したカキツバタの咲く池で身投げした差指物師の妹の話を語ると、
木内君は
「そのカキツバタの花と、あのカキツバタの花は雲泥の相違だ。時代からして違う。ばかばかしい花が咲きやがった。」と言い、この言葉で物語が終わる。

この木内君の言葉が何とも不気味に響いて、その安定しない響きが残されるのだが、この言葉の向こうにある心情はどういうものなのだろう。またそれを聞いた「私」はそこで何を思ったのだろう。その部分が開かれた問いとなって、読者に投げられている。
「ばかばかしい」という言葉を持ってしか形容できないような、被爆に続く敗戦への無念な思いがここに込められているのだろうか。どこにぶつけることもできない忌々しさが怒りとなって狂い咲きのカキツバタに向けられているのだろうか。また、自然体系までを破壊してしまう原爆は人の世の哀しさを伝える物語と同レベルに置くことのできないほど非現実的な現実だということを言いたいのだろうか。
答えはいくつか浮かんでくるが、どんな答えもそれだけでは締めくくれないような気がする。とても言葉で表現することなどできない何か、小説になど書き切れないほどの何か、その前ではこのように「ばかばかしい・・・」と口にするのが精一杯の途方もない何かがこの短編の向こう側には広がっているのだ。
しっかりと口を閉められない袋のように、戦後60年経った今も、何とも気味悪いものがそこから流れ続けているように思えてくる。


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 < 2月6日の文学ゼミの後にまとめた感想。投稿したものの、どうやらボツになったようだ。ここに貼り付けておくことにしよう。>


               


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