たりたの日記
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2006年02月26日(日) |
変容主日とよばれる日曜日に |
一日雨。 午前中教会。 教会学校のお話と歌の集いの担当。 マタイによる福音書11章28節がお話の主題。
<疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもととに来なさい。休ませてあげよう>
子どもには子どもの疲れや重荷がきっとある。そして親も教師も兄弟や友人も肩代わりできないことを子どもは知っている。イエスのもとで得ることのできる休息―伝わっただろうか。
この日は変容主日。 「イエスの変容と私」という題で説教が語られる。 テキストはマルコによる福音書23:37−24:2
あなたにとってイエスの変容はどのような意味を持つのかという問いかけ。 わたしはその事を自分のこととしては受け止めていないと思った。
印象深かったところ。イエスの変容の後、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声がしたとあるが、それはまたイエスが洗礼を受けた時に天から聞こえてきた言葉。初めはこれからイエスが伝道を開始しようとする時、そして今度は、これからイエスの十字架への道行きが始まるというその時。
明日3月1日は「灰の水曜日」教会暦は受難節に入る。 ルオーの「パッション」を観、マタイの「受難曲(パッション)」を聴きたいと思う季節。
午後図書館でブコウスキーの著作について調べる。収穫あり。書庫から6冊の著書を出してもらい借りる。1時間ほどそれぞれの本に目を通す。この作家はけっして心地よい世界を描いているわけではない。むしろハチャメチャにダーティーだ。それなのに読むことは心地良い。この馴染む感覚がいったいどこから湧いてくるのか知りたいとまだ探している。
イエスは彼のことを好きだろうと思える。彼もイエスとなら気が合うだろうと。しかし教会とこの作家の相性はきっと悪い。いや、教会に限らない。清く正しい市民生活を送っている大多数の人からは眉を顰められることだろう。 それならわたしにとってブコウスキーは何なのか。イエスの変容と同様、掴めないでいる。
夕方5時から7時過ぎまで、ダンススタジオでのレッスン。 踊っている時、わたしは何にも引き裂かれず、どこにも矛盾がなく、正真正銘のわたしだという気分になれる。とても必要なことと感じている。
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<マルコによる福音書23:37−24:2>
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
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