たりたの日記
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2006年02月22日(水) 小川洋子著「博士の愛した数式」、原作と映画の間で

さて、今日は正確には2月27日月曜日。ということは日記が6日間ブランクのままだということになる。
原因は簡単だ。22日、水曜日レディースデイに一人で映画館へ行き、「博士の愛した数式」を観た。で、その感想を書かなくてはと思いつつ、まとまった時間が取れなかったのだ。

今その時間が訪れたかといえば、そうでもなく、かといって日記のブランクが増えてゆくのも忍びない。
ここはさらりとひとまず書いておこう。

さて、この映画、まず原作のことから。
小川洋子の著作は初めて読んだが、とても好きな作品だった。
80分しか記憶がもたない数学博士と家政婦、そしてその息子のなんとも暖かい交流を描いた作品だが、しかしこの本にはわたしが全く苦手な分野が2本の柱になっているのだ。
一つは題名が示す通り数学。もう一つは野球。どちらも、もしこういう話題が出るような席であれば、きっとおもしろくもないから、こっそり退散するに違いない。

ところが、この本の中で描かれている数学への愛に、また野球に寄せる熱い思いにわたしは初めてのように、うん分かるなと納得がいった。相変わらず、わたしにとってはちんぷんかんぷんな世界だが、少なくとも、そこに美しいものがあるということ、十分人を支え、生きるエネルギーを呼び起こすものがあることは伝わってくるのだ。

数式に至ってはじんましんが出るほど苦手だというのに、この本を読み終わった時には数字というものに憧れにも似たものを感じていた。
もしかすると、1とか2とか3とかという単なる記号でしかない数字がわたしにとっても別の意味を持ち、もっと生き生きした血の通った数字とのかかわりを持てるかもしれないと、そんな気すらしてくるのだった。

この著書の中で、キラリと煌いている箇所がいくつかあって、忘れないでいたいと思うが、ここに一箇所だけ抜き出しておこう。とても好きな箇所。もしかするとこの箇所がこの著書のテーマではないだろうか。

<空腹を抱え、事務所の床を磨きながら、ルートの心配ばかりしている私には、博士が言うところの、永遠に正しい真実の存在が必要だった。目に見えない世界が、目に見える世界を支えているという実感が必要だった。厳かに暗闇を貫く、幅も面積もない、無限に伸びてゆく一本の真実の直線。その直線こそが、私に微かな安らぎをもたらした。
「君の利口な瞳を見開きなさい」
博士の言葉を思い出しながら、私は暗闇に目を凝らす。>

今、この部分を抜き書きしていて、わたしはなぜ、この作品を映画にしたものがつまらないと感じたのかその理由がまた新たに分かる気がした。
この作品の魅力はこの家政婦で身を立てているシングルマザーの独白にあった。日常の向こうにある深淵な世界に心が開かれていくその過程はひとつのファンタジーだったし、わたし自身がそこへと心開かれてゆく心躍る体験をすることができた。
しかし、映画では、このストーリーの語り部は家政婦の子どものルートだ。子どもの頃の博士との交流がきっかけとなって数学の教師になり、教壇で生徒たちに博士の思い出を語るという構成になっている。そこにはできごととしては残されても、家政婦の心の言葉は出てこないのだ。そうすると、ストーリーの日常性が強調され、この作品の中にあるファンタジックなもの、ただよっている詩的なものが消えてしまっていると感じた。日常の向こうにある非日常の世界、神の領域との接点はどこへ消えてしまったのだろう。

また、著書の中では、うっすらと博士との関係を予想させるような書き方で登場させられていた博士の義姉が映画では、生々しい関係を新たに設定されており、博士と義姉の悲恋という流れが一方に出来、ストーリーの軸が明瞭でなくなってしまっている。また博士と義姉を繋ぐものとして「能」が付け加えられているが、わたしが読みとった博士とは結びつかない世界だ。数式を愛する博士は極めて西洋的なものの考えをする人で、そこにははっきりと神が存在する。「能」にはその世界が伝える魅力はあるが、ある意味で博士の愛する数式とは対極にあるもののように思うのだが・・・
しかし、能の舞台を観る観客の中に著者の小川洋子があったから、著者の意図しない脚色というわけでもないのだろう。


使われている音楽も少し大仰で、やたらと多い海や川の流れの映像もウエット。この作品のからりとしたものとは違った印象だった。せっかくの新しいぶどう酒がわざわざ古い皮袋に入れられたようで、なんとももったいないと思ったが、原作を読む前に映画を観れば、またこれはこれで良い映画だと思って観ることができたのかもしれない。

あ、そうだ。映画の最後、タイトルのところにでてきた、ウイリアム・ブレイクの詩は、これも原作とは無関係だけど、好きだった。
覚えておこうとしたけれど、訳詩をそのままに思い出せない。
原詩が見つかったので、わたしの訳で記しておこう。
sand― hand 、flower― hourの脚韻の美しさが訳すとなくなってしまうけれど。



To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.


一粒の砂に世界を観る
そして野の花の中に天国を
あなたの手のひらに無限を捕らえよ
そしてひとときの中に永遠を


たりたくみ |MAILHomePage

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