たりたの日記
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2006年02月01日(水) 曇り空の朝に

昨夜シークワーサーチュウハイを飲みながら寝ぼけ眼で書いた日記を、今朝修正しながら、はっと閃いたことがあった。

つながろうとするということ。端子を出して人と接するということ―
それはどういうことか。
それはその人に対して敏感になるということ。
少なくとも鈍感にならないということ。
もっとつきつめれば、その人と間に「祈り」を持つということ。

祈り・・・これは願いごとではない。何かを期待するのではなく、その人の存在を感謝し、愛し、その人の幸せを願うという祈り。

もし人との間に「祈り」が存在すれば、おのずと、その人が自分に何を求めているのか、あるいは求めていないのかが察知できるはず。
不用意にその人の気持ちを傷つけたり、がっかりさせたりすることもないはず。

昨日のクラスの中で子どもが涙ぐむ場面が2回あった。
ひとつは年長児のAちゃん。はじめはその原因が分からなかったがすぐに察しがついた。彼女が持ちたかった猫のカードを他の子が先に取ってしまったからだ。6人の子どもが順番に好きなカードを取っていく時、Aちゃんの順番が最後だったのが原因。今度はAちゃんを一番最初にしてあげたけど、涙ぐんだことがすでにはずかしいから素直になれない。
しばらくすると欲しかった猫のカードを手にして気を取り直してくれ、ほっとした。

Aちゃんに関しては察しと対応が間に合ってよかったが、5年生のMちゃんの事はわたしの失敗。
彼女はノートにたくさん自主学習してきて、それをわたしに見てもらいたかったのだ。後で見るからねと言いながら、その日の課題を終わらせ、先週お休みしていたMちゃんとHくんの補習や、よく読めない子の個人指導をしているうちに時間が過ぎてしまった。寒い中外でお母さん達を待たせる訳にはいかない。とうとうMちゃんのノートはゆっくり見ることができなかった。ごほうびのシールを貼ったくらいでは彼女の残念な気持ちは治らないのは分かっていたけれど。
今度からは、わたしの都合優先させず、まず生徒がわたしに望んでいることに気づき、それを優先させようと反省。
ごめんなさい、Mちゃん。

そういえば、ここ1週間「鈍い」という言葉が気にかかっていた。
別にわたしがそれを言われたわけでもないのだが、まるでわたしが指摘されたように振り払っても心に引っかかってくるのだった。
ということはわたしの中に「鈍さ」を、人の痛みに対して鈍いものを自覚していたからなのだろう。
自覚しつつも、じゃあ、その鋭さでもって人の心を刺すということは許されるのかと心の内で反発していた。
少なくともこの人は人を傷つけるような言動は吐かないだろうし、わたしもそうだと居直って・・・

しかし、わたしの「鈍さ」が人を傷つけたことを知る。
それを自覚していなくとも人は人を傷つける。

「祈り」しかないのだと思う。
人は自分の鈍さをどうすることも、また鋭さをどうすることもできない。
どちらにしても傷つけるという加害者になることから免れることはできない。

大切なのはそこに「祈り」が存在するかどうか。
その人に対して祈るような気持ちを向けているかどうか。
拒否ではなく受容する意思がまずあるかどうか。
畢竟、ほんとうには人を愛せない者であるという痛みとともに。


たりたくみ |MAILHomePage

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