たりたの日記
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2006年01月23日(月) |
小山清著「朴歯の下駄」の読書会 |
文学ゼミの日。テキストは小山清著「朴歯の下駄」 今回は何度も繰り返し読んだものの、感想を書くこともせず、感想を言うことにしても、あらかじめ考えることなく読書会に参加することになってしまった。
戦前の廓の風景、その店で働く人や客、双方に行き交う気持ちの流れ、そういうものが読んでおもしろく、味わい深いものがあるのだが、あまりに表層を流れていって、深いところへ食い込んでこないのだ。そういう意味では出会いの化学変化のようなものが起こらなかった。わたしの場合、これが起こらないことには言葉がでてこないのだ。
メンバーの意見や感想を聞いている過程で、何か発見が語るべき言葉が出てくるかもしれないと期待したのだが、新しい参加者も多く、20名ほどの参加者がいたというのに、なぜかわたしがトップバッターでしゃべらなくてはならなくなってしまった。
この作品自体は良くできていて味わい深いものだが、この主人公の煮え切らない態度に釈然としないものを感じるとそのあたりのことを言ったのだが、このはっきりと自分の気持ちを伝えることのできない主人公の人柄とか性格がこの小説の要になっているのだから、そこに文句をつけるわけにはいかないだろうと後になって思う。
また同じように、廓で働く女とその女を買うという客というフレームがまずあっての小説なのだから、ここで女が商品として扱われていることをこの小説の批判として上げてもこの作品を理解することには繋がらないのではなかろうか。決して、そういう男性本位の視点や性を売り買いする習慣や社会制度を認める者ではないが。
たとえば、ホストとか逆援助交際のような世界を扱い、そのフレームの中で何かを表現しようとしている文学作品があったとして、女がお金で男を買うなど、男を商品として見るなど許せないという批評は意味をなすだろうか。 もともと文学の立ち位置と倫理や道徳、社会制度の立ち位置には違いがあるものなのではないだろうかと、そんなことをいろいろと考えるきっかけになった。
しかし、よくよく読めば、この物語の中で尊敬を受けているのはむしろ癒し主としての遊郭の女性で、この女性に心惹かれながらも行動に起こせなかった男を卑小に描いている自虐的な小説という見方さえできるような気がしてくる。ここに隠されたフェミニズムが存在すると見るのは偏った見方だろうか。
それならば、この小説に登場する遊郭の女の立場に身を置いて、その人とシンクロさせてもうひとつ物語を書いてみればどうだろう。この物語で見えてこない部分を、いえ、おそらくは作者が見えないように細工しているほんとうのところが現れてくるのではないかという気がする。想像たくましくしてストーリーを組み立ててみる。久し振りの書きモード。 さて、言葉は出てくるか、作品との出会いは成るか。
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