たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2006年01月21日(土) |
村山由佳著「翼 Cry for the moon 」を読む |
この5日間、本では村山由佳著「翼 Cry for the moon 」に没頭した。 この作家もこの本のことも知らなかった。ダンス仲間のやすさんが、掲示板で紹介してくださったのだ。「たりたさんとイメージが重なる作家」というやすさんのコメントがあり、わたしのイメージとはどういうものなのだろうという興味がまずあった。
はじめのページを開いたところで、すでに捕らえられた感覚があった。 メディスンマン、ネイティブインディアンの長老の言葉 「耳をすませるんじゃあない。心をすませるのだ」―
主人公真冬の修復不可能なほどに傷ついた子どもの時の記憶。それは単なる記憶に留まらない。痛手を受けたインナーチャイルドはどこまで行っても生きずらさをもたらす。人を愛するということに障害を生じさせる。この真冬にもひどく心が惹かれた。それはまたわたし自身の、いえ、おそらくは誰もが持っている傷ついた内なる子どもが、そこに惹かれるからなのだ。
真冬は様々な出来事に遭遇し、人との触れ合い、彼女に向けられた愛や憎しみや敵意を通して、自身の心の中の複雑に絡みあった糸を少しづつほぐしてゆく。それは真冬の物語でありながら、読むものの深いところに潜む傷をも癒してゆく。本来、物語を聞く、あるいは読むという行為はこのような事なのだろう。その物語を主人公と共に歩むことで、心は旅に出るのだ。
日常の生活の中で、本のページに目を落とす時に、心ははるか遠くのマンハッタンへ、またアリゾナへと飛んだ。物語の中で生きている人々の心へもまた旅する。その旅が充実していれば、そこへ戻る時間が待ち遠しく、またページが残り少なくなってくれば旅の終わりを思い、何とも残念な気持ちになるのだ。
昨夜、最後のページを読み終えた時、予想していた祭りの後のような気持ちは不思議と起きなかった。物語の世界から出ることが、その世界との別れを意味しないことに気がついたからだ。物語が終わったそのところから、真冬が、またブルースが、わたしの心の中で生き始めることを感じた。 真冬の痛みも、ブルースのそれも、決して無くなってしまった訳ではない。けれども、ひとつの慰めを得た。きっと二人は今までとは違う足取りで異なる台地を踏んで生きてゆくことだろう。そのことはまたその物語を共に旅した読者にも言える。
傷ついた過去を持つことは必ずしも不幸なことではない。なぜなら、慰めを得ることができるから。苦しんできたことも必ずしも不幸なことではない。愛が人を生かすということを身に覚えることができるから。
本を閉じ、深深とした慰めと、内側から熱くなってくる希望のようなものを抱いて眠りについた。
|