たりたの日記
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2005年12月01日(木) |
去年のシクラメンが今年も咲いている |
この写真のシクラメンは去年の暮れにいただいたシクラメン。 夏の間は外に出していて、とりわけ手入れしたわけでも、世話したわけでもないのに、11月に入るとまばらな葉の間に今にも咲きそうな花芽がたくさん上がってきているのに気がつき、あわてて肥料をほどこし、暖かい部屋へ入れる。
シクラメンは暮れから4月頃まで花を楽しめるが、夏を越して翌年花が咲く事はあまりない。それでも根は生きているから、花が終わると外に出して葉を思うままに出させてあげる。そうして外に出しておいたシクラメンがいくつかの困難な条件をクリアして、株を育て、花を咲く力を奮い起こしてまた花を咲かせることがまれにあるのだ。
葉がびっしりと茂り、花の茎はまっすぐに密集して伸び、花も隙のないほどたく付けている値の張る贈答用のシクラメンに比べると、好き勝手に枝を湾曲させ、花も15個くらいしか付けていない夏越ししたシクラメンは見劣りがする。けれども、花の姿からすれば、わたしはこちらの花の方がよほど好き。
そういえば、今日、ラテンの後、なお先生と汗まみれのまんまで話した事と何か似ている。完璧な整った動きというのは見ていても飽きるし心を惹かれないけど、動きがその人の何かを出している時、その人のオーラがでていていいなと感じると話してらした。たとえば指先の動きだったり、視線だったり、わずかな首の角度だったり、その人にしかない動きが見えるのがいいと。 そう、はじめてM’sのステージを見た時、同じ振りで踊りながらそれぞれがその人自身のダンスをしていることに驚いたのだった。ダンスという表現はこれほどまでに個が見えるのかと感嘆した。いつの日記だっただろう。確かその事を書いている。
夏を越したシクラメンはそれぞれがシクラメンという花でありながら、けっしてまっすぐ同じ形をしていない。花市場ではこれはいびつで売り物にならない花なのだろうが、地上の命ある存在としては、何と生き生きと咲いている花であること。
どこかで聞いた歌の文句みたいですね・・・ というわけで、12月が始りました。
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