たりたの日記
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2005年11月28日(月) |
お話会と文学ゼミの月曜日。 |
ゼミの日の今日、もうひとつ出かけるところがあった。 数日前、マオさんからお誘いをいただき、中野坂上駅から5分ほどのところにある宝仙寺へ「十二のお話朗読会」に行くことにした。
童話作家のマオアキラさんは、つい最近まで、テレホン童話「十二のお話」で童話を執筆されてきたが、今日の朗読会にはマオさんの作品も朗読されるとのこと。朗読会も良い機会だが、日々後主人の介護に明け暮れているマオさんにお会いできる機会はそうは訪れない。
駅そばのコーヒーショップで待ち合わせをし、しばらく話した後に会場のお寺へ向かう。会場では「森のおく」のミュージカルをいっしょにやった方方ともお会いでき、なつかしかった。
大きなお寺のお御堂に作られたステージは不思議な空間。 5人の声優の方たちによる朗読パフォーマンスを楽しんだ。 大人のわたしではなく子どものわたしが内側からひょっこり顔を出して聴いているような気がした。子どものお話を自分のために聴くことをずいぶん忘れていたと思う。 わたしは子どものためのお話、童話や児童文学に大人になってから没頭した。 もっぱら読み手として、また語り手としてのかかわりだったが、いつか書くということにも繋がるのだろうかと思いつつ、ここのところはもっぱら大人の文学に傾いていた。 童話の朗読を聞きながら、置き去りにしてきているものが閉じられた扉に向こうで息をしていることに気がつく。 マオさんから童話を書くことを勧められた。扉は開くだろうか。
最後の朗読が終わったところで、一足先に会場を出て、ゼミの会場へと急ぐ。 いつもの都電荒川線を使うと間に合いそうにないので、高田馬場駅からタクシーで会場へ。タクシーの中でペットボトルの紅茶とカロリーメイトの夕食。
今日のテキストは仲間のNさんの作品「回転する柱」。 この日、都内へ出る電車の中でこの作品を4回目を読んでいる時に、最後のページのところで不覚にも涙がこぼれた。きまり悪さを感じながらも、ようやくこの作品に近づけた、この小説の魂にタッチしたことを感じて嬉しかった。
わたしにとって小説を、あるいは詩を読むという行為はそれを分析したり、批評したり、知識を得るためではない。そこにある魂に触れるという、その事のため。 接触は瞬時に起こる場合もあるが、遠くから少しづつその距離が近くなってようやく触れるに到ることもある。 どうしても心の触れ合わない人が存在するように、わたしの魂には触れることのない作品も当然存在する。
築地魚河岸で働くNさんの小説の舞台は魚河岸、足を踏み入れたことのない特殊な世界。そこで軽子や小揚と呼ばれる運搬を荷う人達を通して、またパン工場や自動車工場での労働を通して、いわゆる底辺労働者に課せられている過酷な労働が顕にされる。その世界の事が書かれている事自体にまず意味がある。
初めてこの作品を読んだ時、きりっと引き締まった文章、言葉の持つリズムの心地よさ、読者を次ぎへ次へと進ませる、物語へと引き込む力といった、この小説が持っている力は十分に感じ、充実した読書ではあったが、自分とは遠いという印象を持った。
しかし、だからといって、端から拒否されている、取り付く島もないというのとはどこか違う。わたしにはまだ見えないが、何か辿りつけるような予感がするのだった。荒廃、叫喚の中に、落ち着いた静かな眼差しを感じ、揺るがない肯定の兆しを感じるからだった。
3回目に読んだ時に、不意にこの特殊に見える世界の中に、自分自身が、いえ、この世に生きる子どもから老人に到る人々が重なっていくのを感じた。 いったい人はすべからく苦しんで日々の繰り返しに耐えているのだと。生きるということは昔も今も、根本のところでそのしんどさは変らない。 底辺労働者ばかりではない。子どもを育てている母親、介護に明け暮れる主婦、過労死を危ぶまれるサラリーマン、学校に行けない子どもも、学校に順応しているいわゆるいい子にしても。受験や就職活動のストレスで精神を病む若者。どの年齢のどういう立場にある人間も感じる、生きるということが本質的に持っている苦悩を思った。
すると、回る柱を形作る銀色に光るイワシ、水槽の中で同じ水道を果てしなく回り続けるイワシの群が小説の文字の中から初めてのようにくっきりと見えてくる。そして、その前に主人公と共に佇んでしまったのだ。 このままでいいのか、この繰り返しでいいのか、その問いがわたし自身へ向けられる。 空洞を覗いたのである。いえ、読むという行為を通して覗かせていただいたのである。
この事は以前にも繰り返し書いたが、人がほんとうの光りを掴むためには一度、我が身の事として空洞を覗くことが必要なのだ。 回転するイワシの柱から目をそらせなくなった主人公はしかし、果てしない空洞に飲み込まれはしなかった。土方をしている長沢さんが見せてくれた赤ん坊の写真に尊い魂の塊を思い、夢に向かって歩み始めたメグミの横顔に、人間としての輝きを見る主人公は最後にこう語る。 「遠い星から見たら、地球にも回転する柱がそこら中にあるかもね。そしてそれは銀色に光って見えて、遠い星の彼らの目には美しいかもね」
わたしが胸を突かれ、不覚にも泣いてしまったのは、まさにこの箇所だった。 はじめに読んだ時に、予感したものはこの中にあった。 闇の中に瞬くひとすじの光りを想う。 アドベントにふさわしい作品を読んだ。
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