たりたの日記
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2005年11月08日(火) |
エミリ・デキンスンと尾形亀之助 |
さて、今日はこれで3日分の日記。 けれど残る時間は10分間。 10分で書けるだけの日記を書こう。
昨日はガーデニングのことばかり書いたが、庭仕事と夜のラテンのクラスの間に集中して読書する時間が取れた。ドトールで1時間半ばかりの時間、トーマス・H・ジョンスン著の「エミリ・デキンスン評伝」を120ページほど読む。 読んでいる心の状態というのが特殊なのだった。どきどきしてくる。何かしら逆らい難い吸引力があって、今自分の居る場所がすっとんで、まるでデキンスンを生きているような気持ちになってしまう。どきどきするというのは彼女の痛みや動揺、神への祈りというよりは叫びや問いのようなもの、その孤独な強い想いがそのまま乗り移るような気分になるからだ。とにかく没頭。
詩人K氏が便りの中にエミリ・デキンスンの評伝の一部を引用していて、彼女の詩もまだそんなに読み進めてはいないものの、その人の背景が気になった。それで日曜日に図書館へ行き、デキンスン関連の書籍をあるだけ借りてき。その中にはトーマス・H・ジョンスン著の「エミリ・デキンスン評伝」もあり、ともかく最初から読み始めたのだった。
今日もほんとうならそこにどっぷりと浸っていたいところだったが、今日、明日は仕事モード。日常から遊離してしまうわけにはいかないからデキンスンは開かなかった。代りに、今度のゼミのテキスト、尾形亀之助の詩集「障子のある家」と、現代詩文庫の尾形亀之助詩集を読む。 これはこれで、なにかじわじわと効いてくる心地。 デキンスンのように自分との近さは感じないが、その遠さの故にやはり惹かれる。それにしてもこの脱力度はなんだ。
予定の時間10分経過。 寝るべし。
朝になってつづき。 というのも、掲示板をのぞくと、今日の日記で尾形亀之助の詩のことを書くなんて宣伝している。それなのに、肝心の亀之助の詩は書かずじまいだった。
ここにひとつ載せておこう。
十一月の晴れた十一時頃
じっと 私をみつめた眼を見ました
いつか路をまがらうとしたとき 突きあたりさうになった少女の ちょっとだけではあったが 私の眼をのぞき込んだ眼です
私は 今日も眼を求めていた 十一月の晴れたわたった十一時ごろの 室に (尾形亀之助)
どうしてこの詩をひとつだけ選んだのかといえば、 タイトルがまず今日の日に合っていたということと。 それから、「私は 今日も眼を求めていた」 というフレーズがとても響いたからだ。
この眼というのは、詩人をのぞきこもうとする他者の眼。 その眼の内側にある魂に触れようとする眼。 眼から手が伸びて、何かを掴もうとするような、 あるいは何かを手渡そうとするような そんな入り込んでくる眼差し。
そのような眼に合うとどきどきする。 きっと自分の中で何かが変る。 それは人の眼でなくともいい。 猫の眼であっても、 花の眼であっても、 空の眼であってもいっこうにかまわない。 本の中にも眼があるから わたしは容易にそこに捕まる。 眼。 今日も求めながら道を歩くことだろう。
それにしても後で変えた日記のタイトル「エミリ・デキンスンと尾形亀之助」 いったい全体、この組み合わせなナンだ!と思われることだろう。 わたしの中では矛盾はないのだが・・・ もしエミリと亀之助が対面したなら、二人は人目見てそっぽを向くに違いないと、その様子が浮かんできておかしかった。
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