たりたの日記
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2005年11月06日(日) |
わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。 |
「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主の御名はほめたたえられよ。」
これは旧約聖書、ヨブ記1章21節で、家も財産もまた家族もすっかり奪われたヨブが語った言葉。
今日の礼拝説教は牧師になるための研修を受けているY神学生からのメッセージだった。 説教のはじめに、彼女の母国、韓国の「生まれる時には何も持たずにこの世に来て、また天に帰る時には手ぶらで帰る」という諺を紹介してくれる。 韓国の諺はたいてい日本の諺の中に同じようなものが見つかるが、この諺に関しては日本には無いように思う。けれど聖書の中にはあると、ヨブ記のこの言葉を示した。
Y神学生は問いかける。 「わたしたちの上に重くのしかかっているものは本当に必要なものなのか」と。
イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天国はその人たちのものである。」と言う。 心の貧しい人々というのは、生きることの困難を知っている人の魂で、その人たちは幸いな者として約束されているとまた語る。
「そのままでいい、そのままのあなたでいい」とイエスはわたしたちに語っていると。
聖書をどう読んでいくか、それはその人の生き方考え方が繁栄する。またその人の背景となる国柄や教派の影響も大きいだろう。 わたしは日本のプロテスタント教会の中で育ってきたから、日本の教会の伝統的なキリスト理解や聖書観の影響もずいぶん受けているのかもしれない。 というのは、彼女の説教に今までの説教者とは異なるものを感じたからだ。 そしてそれというのは、ここのところわたしが心に止めている「脱力の人」とどこかで通じていると、そんな気がした。 彼女の説教を聞きながら、Let It Be のリフレインが、また脱力の詩人、尾形亀之助の詩のフレーズがか浮かんでくるのだった。 いや、いや、これは単に今、わたしが尾形亀之助詩集にどっぷり浸っているから我田引水をしているだけのことかもしれない。
それはそれとして、外国語として習得した日本語で、日本人を相手に教壇に立って説教をする彼女はほんとうにあっぱれだと感心する。 わたしは逆立ちしても真似できない。 それは彼女自身が「貧しい者」としての位置にしっかり立っているからなのだろう。余計な自尊心からも卑屈さからも解放されている「脱力の人」だからなのだろう。
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