たりたの日記
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2005年10月17日(月) 「骨月あるいは a honey moon 」 武満徹著 を読む

一日雨。今日は家事の他は何も予定を入れず、今夜の文学ゼミのテキストになっている「骨月あるいは a honey moon 」 武満徹著の感想を書くことにしていた。
いつもぎりぎりにならないと書けない。行きがけの電車の中とか喫茶店でようやく文章が浮かんでくる。今日は家にいる時に書けたから原稿をプリントアウトして持ってゆくことができた。
しかし、ぎりぎりまで書いていたので家を出るのが予定より30分遅れ、ゼミには10分ほど遅刻。
仲間の感想を聞くことでまた発見もあった。この場をやはり有り難いと思う。
雨の中、いつものように高田馬場までみなでとぼとぼ歩く。30分ほども歩くだろうか。この歩きながらの話も貴重。やってくるインスピレーションを受け止める。
居酒屋での2次会には参加せずに早めに帰宅。



     「骨月あるいは a honey moon 」 武満徹著 を読む
                           
闇の深さとそこに注すほのかな白い光り。
闇が象徴するもの。命が何であるのかという問い。その問いは掴みようもないほど深い闇として目の前に横たわっている。
だが作者は、その闇の中に、暗い空を穿つ月を、また体の朽ちた後の残る骨を置く。
そこに「永遠」のイメージがぼっと浮かびあがる。
答えはない。けれど、骨月の静かな光りは暗闇を照らしていて、確かにそこは明るいのだ。
果てしない闇とその中で光を放つ骨月へと、誰の心の奥にも存在するだろうその場所へと誘われる。この作品を読むことも、またひとつの旅だった。

武満徹の「骨月あるいは honey moon」の中で、とりわけ印象的だったのは狂死した伯母が語ったいくつかの言葉だった。言葉は月のように幽玄な光を放っている。

「肉体のなかに骨があるのではありません。ほんとうの肉体は骨のなかに入っているのです。この骨の周囲にまといついているぶよぶよした肉はみせかけのものです。
血は海水といわれているけれど、骨の中には、月を流れているのとおんなじ白いすきとおった水が流れているのです。血や肉はかならず腐るし、海の水はやがて涸れるでしょう。それでも骨は残ります。なぜなら、骨を流れているその流れは、血や海のようには波立たないからです。」
伯母のこの言葉はこの小説を貫く主題であると思う。
ここで伯母が言うほんとうの肉体というのは目に見えない、人間を生かしている生命そのものの存在なのだろう。そしてその骨の中を流れる水、命の力は月を流れるものと同じであるという。ここに、この伯母の人間観、宇宙観を観る。この世界には朽ちるものと朽ちないものとがあり、やがては朽ち果てる人間の身体には、しかし朽ちることのない命が通い、そこのところで宇宙と繫がっているという見方。

伯母の家系は蘭学の医者で、その中にはオランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」杉田玄白と共に翻訳した前野良沢の弟子、原養沢がいた。伯母は養沢が書き残した日誌や資料を読んで、人体解剖に立ち会った後の前野良沢の内的変化について知ろうとしていた。
「體」という字の偏が月(にくづき)ではなく、骨であることはおもしろいですね。
まことに骨こそは、肉体の闇の中空に枝を張って人を支えています。骨は永遠に、人間の歴史の暮れることなき夜を凝視(みつめ)るものです。前野良沢は、骨がかけた謎にとらえられたのです。やがて、それが解きえぬものであると知った時に、良沢にとってすべてはむなしく思われたのです。」と伯母は語る。
伯母は「骨がかけた謎」と語るが、この謎は何を意味するのだろう。命の意味、そして死の意味。人知の及ばぬところにしか答えのない果てしない問い。

伯母が語る良沢の手紙の記述は興味深い。
「前野良沢はのちに原養沢へ書き送った手紙に、身体内外のこと分明(ぶんみょう)を得しと覚えたのは悉く錯覚であったように思えてくる。身体のことが明らかになれば心の闇はいやさらに濃さをまし、私はまるで盲(めしい)のように真っ直ぐな迷路を手探りしている。なぜこのように業を曝さねばならないのだろうか―と。」

すべてを把握しているということが幻想にすぎないことを知った時、人は空洞の淵に立たせられるのかもしれない。周知のことがすべて解決のつかない問いとして向かってくる。人間の身体の神秘を目の当たりにした前野良沢は、人体解剖がきっかけで反対に人間の闇、空洞を覗き込むことになったのだろう。
地球を離れ宇宙の旅をして戻ってきた宇宙飛行士の中には内的な変化が生じる人が少なくなく、科学者の道を降り宗教家への道を歩み始めた人もいると聞くが、ものごとを極めるほどに、圧倒的に知らないこと、把握できないことの広がりにさ迷い出るのだろう。

「骨は心の闇に懸る月、闇深い夜(世)に白く冴える」
このような内容の歌を添えて、良沢は人体解剖の際に持ち帰った一片の骨を弟子の養沢に手渡したという。そして、「解体新書」の訳業を終えると、頑なに名前を出すことを拒み、長崎へ旅立ったという。
前野良沢の日誌に、オランダの医学書を翻訳するにあたって当惑したZinnenという言葉のことが誌されており、この言葉の意味を是が非でも解きたいという存念が書かれていたという。作者はZinnenという言葉には、たぶん精神という訳語が適当なのだろうと書いているが、英語では精神はspirit。この言葉は 同時に霊、魂、聖霊、幽霊などの意味を持つ。魂、わたしたちが肉体とは別に認めるところの、もうひとつの不可視な命のかたち、人そのもの。伯母の表現を借りるならば、それは骨の中を流れる朽ちることのない水。
良沢が解きたいと願った言葉の訳語をわたし達は言葉として知ることはできるが、その言葉の意味するものの存在はやはり闇の中に光る骨のようにおぼろげで、闇の深さをこそ際立たせている。

ところでこの作品は妻に捧げた私家版となっている。タイトルの骨月はよいとして、
a honey moon は何を意味しているのだろうか。
このa honey moon と呼応しているようにこのストーリーの最後は、
「将来、中国へ自由に旅行ができるようになったら、あなたと恐竜の化石を探しに骨月の旅へ発とう。」と結ばれている。
これは実際に中国への旅を意味しているのだろうが、人生を共に歩むパートナーへ向かって、この地上での生を終えた後に新たに始る旅(a honey moon)への誘いなのではないだろうかと思ったりした。


武満徹著作集2「音楽の余白から」いう著書の中に、「死の巡り」と題されたエッセイがあって興味深かった。
この骨月の作品と同じ音楽がここからも聞こえてくるような気がする。
記しておくとしよう。

「人間の生は束の間だが、死は無限だ。しかも人間の薄いヴェールを隔てて、死はつねに生の直中に生き続けている。「死は虚無なのではなくて、すべては生きてあるもの、すべて存在しているものの実際の一致」なのだ。するとこうして眺めている風景も、すべては死の風景と言えなくはない。
 死の風景のなかをさまざまな生が歩む。死の形容(かたち)もまた一様なものではないのだろうか?たぶんこういうことは言えるだろう。死の風景―死が全体を隈なく覆いつくしている一枚の黒い布に(人間の)生が無限に固有の穴を穿けているから、私たちの眼に死は見定め難い。そして人間がかれの固有の生を知覚するときに、この現実でのうつつの生を終えるのだ。」 <武満徹著作集2 P84、2行目からの抜粋>

「生とか死はとるに足らない様態であって、たとえば植物であるとか、鉱物であるとかいうのと同じなのだ」とル・クレジオは書いているが、それだから、この生から死への移行を司る大きな意識、私たち人間の個々にして分散して在る無限の意識の実在を信ずることができる。死はけっしてひとつの終末ではない。人間はたぶん自分なしで世界が永続することを信じようとはしないだろうが、死は停止ではない。私たちは生という形容(かたち)を借りて、感覚では捉え難い超越的な意識の海を漂っているのだ。そして個々の死は、そのプラズマ状の意識の電離層をとび交う原子核(ヌクレア)なのだ。死によって私たちは、「言葉につくせぬ認識の大海」に浸ることになる。 <武満徹著作集2 P85、20行目からの抜粋>


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