たりたの日記
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今日は朝からしずかな空気に満ちていた。 まわりに音がないというのはいつものことだから、わたしがことさら「しずか」と感じるのは心がしずかだったからに違いない。 久し振りにどこへも行かないひとりの日は心がしずまる。
まず、庭仕事をした。 夏の間に伸びワイルドな状態になってしまったハーブ類やアイビーの類を刈り込む。アンネのバラとアイスバーグの白バラの枝の剪定とか、いろいろ。 ほんとに猫の額ほどのちいさな庭だけれど、ここに育つ植物たちは詩的だ。わたしに管理などされてはいなし、よほど天国に近い。この空間を日常とは別の空間に変える。ちょうど切り取られた窓のようにそこからあちらの世界が見えているような気持ちになる。そんな植物たちに鋏を入れるわたしはいったい何者だろう。
次に、押入れから秋の衣類を出した。 今日のようにまだ半袖のTシャツ一枚で過ごす日が続くかもしれないから、夏物はすっかりしまってしまうわけにいかない。本格的な衣替えはまだ先。 もう何年も着てなくて、今年もとうとう着なかった夏服を今年こそは捨てようと袋に詰め込む。そうしておきながら、これがやっぱり捨てられないで、押入れの隅っこを占領するのだが。
遅い午後、武満徹の「骨月あるいは a honey moon」の3回目を読む。もともと骨が好きなわたしは、このタイトルから惹かれていたが、次第に深く魅了されていく。 書いた人が作曲家だからだろうか、ちょうど音楽にわたし全体が包み込まれ、 その音がなくなっても、その音の中に閉じ込められてしまうような音楽体験ととてもよく似ている。他のことをしていても、この白い月と骨のイメージが耳の奥で鳴り響いている。感想はまだ書ける気はしないけれど、骨に沁み込んでどうやっても離れることのない音楽のように、このストーリーも骨に沁み込んでいこうとしているのかもしれない。
その後に聖書の創世記1章から3章までを読む。 あさっての教会学校のテキストが3章の「蛇の誘惑」のところになっているからだ。 この物語はさまざまな事柄を含んでいるし、神学的にも、様々な角度から読むべき箇所だろうが、子ども達にはこの話のまんま、そこに登場するアダムとエバと蛇と神のそれぞれの言葉をその通りに伝えたい気がする。それだけで十分おもしろいからだ。その事が何を意味するかということは子ども達が何かの折に、また大人になってから自分で見つけるというのでいいのではないかしら。 わたしの仕事はその創世記の生き生きとした場面をそのままに取り出してみせること。しかし、きっとこれこそが難しい。 ところで2章の最後、自分のあばら骨から作られた女を目の前にしたアダムの言った言葉がとても新鮮に響いた。
人は言った。 「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
(創世記 2章23〜25)
さて、アダムとエバ、ここまではエデンの園で平和な日々を暮らしていたのだが、ある日、賢い蛇がエバをそそのかす。
そうして夜。 晩ご飯はブリの煮付け、豚肉、もやし、にら、人参の炒め物、しじみの味噌汁。 日記を書きながら料理なんかするから、また魚を焦がしてしまった。
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