たりたの日記
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とどめ刺せとどめ刺せてふこゑひびきつつ秋茄子の傷ある紫紺
塚本邦雄
今日は秋茄子を料理した。 小ぶりの茄子の光った紫紺の皮に包丁の先を突き刺し、すうっと半分に切り分ける。さらにその半分の茄子の真ん中に包丁を入れ4つに割る。 何のことはない、いつもの台所での所作だ。ところがつい先ごろ上記の歌を知った後ではその所作が痛い。 もうこれから先わたしは無邪気に秋茄子を切り分けることができなくなるのではないだろうか。
この歌を詠んだ歌人が傷のある紫紺の茄子に見たのは十字架の上のイエス!瞬時にやってきたインスピレーション。どこか見えないところからそのことを告げる声が聞こえてきたようにも思える。
あの時傷ついたイエスはイバラの冠りをかぶせられ、紫色の衣を掛けられ、「ユダヤ人の王」と書かれた札を付けられ、唾され、ののしられ、とどめ刺された。 秋茄子のへたのいがいがはイバラの冠のように見えないか。
わたしは短歌というものが少しも分からない。おおよそ味わい方も詠み方も知らない。それなのに、この歌人の詠む選ばれた言葉のひとつらなりが心のずいぶん深い層に入り込んできては、その人の世界を押し広げ、さらに、生き物のように動き始めている。 しかし、それが何を意味するのかわたしはまだ分かってはいない。
その歌人の事を教えてくれた詩人のK氏は歌人とわたしのこういう出会いをどこかで予想していたのだろうか。
現代詩人文庫「塚本邦雄歌集」国文社、ここ2、3日、この歌集のいくつもの短歌の間を行ったり来たりしている。 歌人の歌を通して、すでに見てきたイエスをまた見る。 これほど真近でイエスを見ていただろうか。 イエスだけではない、他の歌もまた。自らの「空洞」になんという接近の仕方だろう。
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