たりたの日記
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2005年10月03日(月) |
空洞が見えている人たちと |
昨日の日記で「伊集の花」の登場人物やダンスの仲間の事を書いた。 今日はメールをくれた文学ゼミで出会った友人達のことを考えていた。 そしてはっとその人たちに共通することが見つかった。 わたしが心引かれ、また心開かれる人たちに共通するものは「求道心」ではないかしらと。
今ある自分のところに停止していない。すでにこうだと物事に答えを出していない。悩むにしろ探すにしろ信じるにしろ、より先にあるもの、目には見えないものを見つめようとしている人たち。眼差しが遠くへ注がれている人たち。
そしてそのことはこの前から気になってしかたなかったバルトの指し示す「空洞が見える人間」ということと不思議に呼応する。 今日はどうしてもその事を書いておきたい。
これはバルトが新約聖書のローマ書1章の11節から12節までを引用して、講解をしている箇所の中にあるのだが、バルトはこう語る。
神の道において出会う人たちは、互いに分かち合うべきものを持っている。ある人は、他の人にとって何ものかでありうる。しかしもちろんそれは、彼がその人にとって何ものかであろうと意志することによってではない。だから、たとえば、決してかれの内面の豊かさによるのではない。かれが現にあるところのものによるのではなくて、まさに、かれが現にないところのものによって、彼の欠乏によって、彼の嘆きと望み、待つことと急ぐことによって、かれの存在の内にあって、かれの地平を越え、かれの力を越えるある他者を指し示すすべてのものによってではある。使徒とは、プラスの人間ではなく、マイナスの人間であり、このような空洞が見えるようになる人間である。・・・・・・・
<冨岡幸一郎著「悦ばしき神学」―カール・バルト「ロマ書講解」を読む よりp101「空洞が見える人間」より抜粋>
空洞が見える人間、マイナスの人間、つまり求道者。 「あんたが大将」と揶揄されることのない、自らの欠けを自覚する人。「無」の人。―神はその人を通して恵みを与える。 宗教者であるとかキリスト者であるとかといった範疇をそれは越えている。 そういう「空洞が見える人間」と何かを創り、また意見を交換し合うことができることを在り難く思う。 わたしもまた「空洞が見える人間」でありたいと願う。
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