たりたの日記
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2005年09月29日(木) |
「使徒的人間--カール・バルト」という本 |
宗教とは、信仰とは、神とは、イエスとは・・・ わたしにとってこれらは決して自明なことではない。常に新しい問いとしてわたしの前に立ち顕れる。
今年の春、偶然に富岡幸一郎氏に出会い、氏を通して、バルトに出会う。いえ、まだ出会ったなどと言えるものではない。まだそこへ向かって一歩たりとも歩み出してはいないのだろう。 けれども、バルトの言葉は難解ではあっても、まっすぐに強い迫りを持ってやってくる。 あぁ、これだと深く納得し、また、刺され、うな垂れる。
今日は富岡幸一郎著「悦ばしき神学」カール・バルト「ローマ書講解」と同著者の「使徒的人間―カール・バルト―」を再読していた。数ヶ月前に読んだ時よりも手ごたえが大きいのは、その時よりも、今それを必要としているからなのだろう。
カール・バルトを検索で探していたら「使徒的人間」の紹介のページに行き当たった。この言葉は著者自身によるものに違いない。 カールバルトのエッセンスがこの短い言葉に込められている。 すでに火がここに燃えている。 そこへと歩みを進めるための道を照らす松明ののように。
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2000.09.03 「使徒的人間--カール・バルト」講談社 富岡幸一郎著
〈20世紀の落雷〉
バルトの言葉は落雷となって 私の脳天を直撃する 旧約の神のように恐ろしい この男は
背理(パラドックス)を説く しかし外連味(けれんみ)なぞこれっぽっちもない それは徹頭徹尾 鋼鉄で出来ている言葉だ
神のような謝絶 否(nein)! 否(nein)! 否(nein)! その「否」は二千年の時代を否定し 私たちを紀元一世紀のイスラエルへ運ぶ
すべての「神」は死ぬ ニーチェの宣告は正しい しかし 人として死んだ神がいる 人の理解を拒絶する神がいる 正気であるためには狂っていなければならないのか
宗教とは何か 自分がどんなに惨めであるかを知るためのものである 我が生のありさま、事実を知ることである 自分の「穴」を見つめ続けることである 呪われた自由を生きることである 「神」はいないことを知ることである 生きることに絶望することである 孤独な死に至ることである
「救い」はないのか そんなものはない そのとき、落雷!! 迫害者サウロがパウロに変わる
それは何か 襲来である 空襲である 逃れられない運命である 自由なぞ奪われる 吊り上げられた使徒は再び地表に降ろされ 束縛された「自由」つまり「命令」が始まる
神は絶対的な束縛である 神は限定を与えるのだ いかなる? あるがままの生の
神とは誰か 招く人であり 迷いを許さない人である 人の死を死んだ神である
その神とは何であり、何を保証するのか 神は人の言葉を解し、語りかけるものである しかし人ではない 何も保証なぞしない 人はうち捨てられたままだ
人が神を待っているのではない 神が人を待っている
生きていることが生きていることではないし 死ぬことが死ぬことでもない
バルトは「狂人」である バルトは使徒である
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(目次)
一章 発見 二章 衝動 三章 境界 四章 接線 五章 言葉 六章 死 七章 宗教的人間 八章 自由 九章 自然神学 十章 追思考 十一章 告白 十二章 原歴史 十三章 ユダヤ人 十四章 引き渡し 十五章 虚無的なもの 十六章 創造 十七章 天使論 十八章 倫理 十九章 和解 二十章 虚空
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