たりたの日記
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2005年08月12日(金) |
くもり空 雷(いかずち)近く 詩編読む |
金曜日、曇り。
雲は今にも雨を降ってよこしそうに重いのに、持ちこたえたまま夕方の今まで雨にはならないでいる。
今日は簡単な家事をした他はずっとダイニングテーブルの前に座ったきり、パソコンと本の間を行き来していた。
読書にしても書くことにしても、読みたいものを気侭に読み、書きたいことを鼻歌交じりに書くのは楽しいが、たまには苦労して読み書きをすることもある。 明後日の教会学校で話す話の準備に手間取っている。
聖書の言葉を子供達に伝わるように話さなければならない。 それが教条的な教訓や 脅しに陥ることなく、安心や喜びや力になるように話すのでなければと思う。 今すぐに分かるのでなくても、やがて、いつの日か芽を出す種を土に埋めるように。
雷だ。 ザッとやってきた。 洗濯物を取り込んでこよう。
テキストは詩編3編。 福音書のイエスの言葉や、旧約聖書の物語などに比べると、詩編を教材にして話すのは難しい。
< 詩編第3編 > ――賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき――
主よ、わたしを苦しめる者は どこまで増えるのでしょうか。 多くの者がわたしに立ち向かい 多くの者がわたしに言います 「彼に救いなどあるものか」と。
主よ、それでも あなたはわたしの盾、わたしの栄え わたしの頭を高くあげてくださる方。 空に向かって声をあげれば 聖なる山から答えてくださいます。
身を横たえて眠り わたしはまた、目覚めます。 主が支えていてくださいます。 いかに多くの敵に包囲されても 決して恐れません。 主よ、立ち上がってください。 わたしの神よ、お救いください。 すべての敵の顎を打ち 神に逆らう者の歯を砕いてください。
救いは主のもとにあります。 あなたの祝福が あなたの民の上にありますように
そもそも詩編とは何か。 旧約聖書には150編の詩編が収められている。大半がダビデの詩。 他には ダビデ王の子ソロモン王や、他の詩人たちによるもの。作者未詳の詩も多くある。 イエスの生まれる千年ほど前に書かれた詩ということになる。 当然、イエス自身、それを学んで育ち、吟じていた。イエスの説教に詩編からの引用は多い。
詩編と言う言葉はギリシャ語では「プサルモイ」=「奏でる」という意味。実際、ダビデは竪琴を爪弾きながら、自作の詩を吟じていたようだ。 またヘブライ語では「テヒリーム」=「讃美の歌」の意味。つまり神を讃える歌。 しかし、詩編を紐解いてみれば、その詩は決して讃美だけにはとどまらない。悲しみや嘆きの詩もあれば怒りや叫びもある。 言えることはその嘆きや叫びも神に向かっているということ。 自分に向かっての怒りや嘆きではなく神へ向かっている・・・つまりどれも祈りなのだ。
ここでの祈りは決して、頼み事、願い事ではない。 ご利益宗教に見るような、神を人間の側に引き寄せて、言うことを聞かせるといった都合の良いものではありえない。 祈りは神に向かって叫ぶこと。 なぜ叫ぶことができるのか。 そこには絶対の信頼があるからだ。 神が在るという、その神は聞くという、その神は助け救うのだという確信。
この詩編3編は、ダビデが我が子アブサロムの率いる敵から包囲され、四面楚歌の状態にあった時の詩だ。まさに危機的、絶望的な孤独な状況の中で、彼は主支えにあって、「身を横たえて眠り、目覚める」と詩う。 そして「救いは主のもとにあります」と安らかだ。 本当は額に冷や汗をかきながらやせ我慢して書いた詩なのかもしれないと疑ってもみる。けれど、言葉が神の方向へ向かっていることは確かなこと。 絶望を払拭し、神に向かって頭を上げるダビデ。 神を信じる者のきっぱりとした姿。
「私達が自分自身には救いがないと思うことも、神に対する冒涜である」とルターは言っている。 またキェルケゴールは「絶望こそが死に至る病である」と。 そもそも人間は絶望に甘んじ、そこに好んで身を任せる存在なのかもしれないのだが、詩編の詩人達は語りかける。 自らに絶望を向けて己を蝕むことを止めろと、神に向かってその絶望を吐き出し、手を伸ばせ、激しく戸を敲けと。
さて、ここまでがわたしのこの詩編の理解。 これを子供達に伝えるためには・・・それは明日の課題だな。
さっきまで恐ろしいほどの音を立てて降っていた雨が止んだ。 夕食を作り始めるとしよう。 今朝、大分の母からクール宅急便で、ナスだのゴーヤだのきゅうりだのがたくさん届いた。 ゴーヤチャンプルーに、豚肉ナスとピーマンの味噌炒めを作ろうか。 今夜はmGが早く帰ってくるから、酒はとっておきの大古酒「天盃・博多山笠」にしよう。Sさんからいただいた優れもの。
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