たりたの日記
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2005年08月13日(土) 武田泰淳 「もの喰う女」を読む

7月25日のゼミの日、池袋のビジネスホテルに泊まったことは7月27日の日記に書いたが、肝心のテキストの感想は書かずじまいだった。
これは、ゼミに出かける前にホテルでノートに走り書きしたもの。
ゼミの場で読んだメモを書き写しながらいくらか削ったり、加えたりした。

ゼミの席では、ここで語られているのは 聖母マリアの持つ慈悲ではないか。泰淳が房子をキリスト者として位置づけたのはなぜか、そこに意味があるのではないか。房子は生きる力を象徴し、一方弓子は死を象徴しているといった、興味深い考察が語られた。




       武田泰淳 「もの喰う女」を読む


7月11日のゼミの後、高田馬場から家までの電車の中で、次のテキスト「もの喰う女」を取り出した。
酔いの回った頭の中にも、その文章はすんなり入ってきて、ちょっと奇妙なカップルの食べ物屋巡りに後からくっついて行っているような気分になった。

この主人公の男をとりわけイイ男だとも、好きなタイプだとも思わなかったが、相手の房子にはふっと気持ちがなごみ、おもしろい人だなあと惹かれるものがあった。
いつも素足、ひどい貧乏で傘さえ持たずに濡れて歩くという房子の描写の中に、この男(作者と言うべきかもしれない)が寄せる好意の具合が見え、哀しくて優しい気持ちになる。

房子が食べ物を食べる場面がいくつも出て来るが、喫茶店の隅の席で店のドーナツを食べるところの描写はいい。この頃は脂っこいドーナツなど、あまり食べたいとも思わないが、この部分を読んでいると、若い日にドーナツが食べたくてしかたなかった時の気分や、その食感や味までも甦ってきた。

圧巻はやはり最後の部分。房子の家へ曲がる横丁の所で「私」が急に「オッパイに接吻したい!」と言うところから最後の部分。読み終えた時、電車の中だというのに、思わす笑いがもれた。そしてそのすぐ後に少し泣いた。可笑しさがそのまま胸を突くような哀しみに変ったのだ。
いったいこの泣きたい気持ちは何なのだろうと、そのことをそれほど突き詰めて考えることはせずに、ころころと転がす感じでこの2週間探ってきたように思う。


ひとりの男がひとりの女に感動している。そしてすっかり負けたと感じている――これだ。

わたしは男ではないけれど、ここに滲んでいる男の哀しさのようなものを感じることはできる。
房子の示した驚くべく素直な行為はとんかつ2枚の御礼などではなく、この男の弱さを慈しみ受け入れる行為だった。そしてその事は男にじゅうぶん分かっていたのだ。だからこそ、
「不明瞭な、何かきわめて重要な事実が啓示される直前のような不安が泥酔の闇の中に火花の如くきらめきました」と言い、さらに友人の家ですすり泣く真似をするのである。

自分自身の中にはない資質を持ったひとりの女性に対面しうな垂れる。ここから自分が変っていくということに慄いているかのようだ。
性的なものを遥かに超える女性の持つ広さにすっぽりと包まれ、男は思いがけずに鎧を脱いでしまったのだろう。男が宗教的エクスタシーにも似たものを覚えていると感じるのはわたしだけだろうか。

さて毎度の事だが、ゼミのテキストを読むとその作家の事が知りたくなり、他の作品も読みたくなる。
今回は武田泰淳の作品に加え、房子のモデルとされる武田百合子夫人に興味を覚え、彼女の書き綴った「富士日記」上、中、下巻を読んでいる。
何にも捕らわれずに、自分の感性を素直にそのまま出している百合子夫人の文章は新しく心地よい。

また「もの喰う女」の続編のような泰淳氏の「女の部屋」も、とてもいい。ひとりの女性を美化することもなく、本質を見抜いておりながら、そこに尊敬にも似た眼差しを見る。
泰淳の他の作品もいくつか拾い読みしたがどれも重い。それがこの作家の持ち味なのだろうが、いくつか読むと読み進められないで放ってしまった。

一方、武田百合子の書くものにはおおいに響くものがあって、読むほどに新しい彼女と出会うような愉快でのびやかな気持ちになる。この人の世界にもう少し入りこんでみたいと思っている。

                 (2005年7月25日)


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