たりたの日記
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2005年07月04日(月) |
永井荷風 「狐」 を読む |
先週のことになってしまいましたが、ゼミで取上げられた永井荷風の「狐」について感想を書きかけたままにしていたので、今日続きを書きました。その前に、「あめりか物語」と「ふらんす物語」を読んだのですが、おもしろかったです。坂口安吾も引き続き読んでいます。今週、文庫本2冊分の作品集を堪能しました。感想はまたいずれ。今日は「狐」の感想を記しましょう。
6月27日の正津文学ゼミ。テキストは永井荷風の「狐」。
永井荷風の作品を読むのはこれが初めてだった。この作家のことについては花柳界に入りびたり、そこに生きる女達を書いた「花柳小説家」ということくらいしか知らなかったので、華やかな花柳界とはまるでトーンの違う、幼少期のことを描いたこの作品を意外に思った。
読まず嫌いを決めこんでいたが、読んでみると、文章は美しく洗練されている。声に出して読むとそのリズムが心地よく、日本語の美しさを改めて気づく。また風景や人物の描写力にすぐれ、自分も人も客観的に見る冷めた目と、柔らかな少年の心を失わずにいる優れた作家だと思った。そうすると、作家がどういう育ちをし、何をきっかけにして「花柳小説家」になったのか、ひどく興味を持ち、図書館で作家の作品集や評論集などを借りて読み始めてみると、なんともおもしろい。
荷風は25歳から30歳までの5年間、アメリカとフランスに外遊しているが、「狐」は外遊から帰国したすぐ後に書かれたものだと知り、なるほどと腑に落ちるものがあった。 というのも、「狐」の中には幼少期の自分の家の様子、家族やそこに出入りする人々、また 幼い心で感じたことが、実に生き生きと表現されている。作家本人がその過去の事柄をまるで新しく見ているような新鮮が感じられるのだ。どうしてこれほどまでに古い過去の出来事の描写が新しい驚きのようなものを帯びているのだろうと、読みながら不思議だったのだ。
どういう理由でわたしが納得したかという事だが、外国でしばらく過ごす内に、自分の祖国は遠い存在になってしまうのだが、自分の幼少の頃の事、忘れていた記憶の底に沈んでいたことが妙に生き生きと思い出されるという経験をわたし自身がしているからだ。欧米の暮らしとまるで異なる昔の日本を、ある意味外国人の眼で見るからなのだろう。そうするとそれまで、取るに足らないと思っていた日本の正月の習慣や祭りや、家庭での話題などが、全く異なる光りを帯びてくる。取るに足るおもしろいこと、書き残しておくべきことと思えてくる。わたし自身がその文化に愛着を持っているとか懐かしむという感覚ではなく、外国人から見ればこの習慣はおもしろいと思えるだろうという、一種のエキゾチズムに刺激されるようなのだ。
さて、しかし、荷風が「狐」と同じ時に発表している「ふらんす物語」、またその前年に発表している「あめりか物語」を読む限りにおいては、日本を懐かしみ、その文化を見直したというような記述は見当たらない。むしろ日本を欧米の文化や習慣、人の立ち振舞いと比較して、その貧しさに言及する記述が目立つ。異国に触れることで、日本に落胆していることが見て取れる。「ふらんす物語」はこのような言葉でしめくくられているのだ。
<・・・長い長い船路の果てに横たわる恐ろしい島の事を思い浮かべた。自分はどうしてむざむざ巴里を去ることが出来たのだろう。>
現代日本に生きているわたしでも、帰国してからの逆カルチャーショックは予想以上につらいものがあった。それまでは当たり前の事として受け入れていた様々な事にいちいち突っかかった。さらにはどこにも持ってゆくことのできない気持ちを抱えて暗澹たる気持ちの中に沈み込んだ。明治時代の日本であれば、その落差はさらに大きく、荷風の落胆ややり場のない気持ちはどれほどのものだっただろう。
「狐」の中で、幼い頃に感じた古庭の恐ろしさや不気味さ。そして鶏を殺した罰として狐を殺した男たちが、今度は狐を殺した祝いの宴のために鶏を二羽殺すことへの理不尽さを書いているが、欧米から戻ってきて、感じる日本への「恐ろしさ」に、幼い頃心に焼きついた「恐ろしさ」が結びついたのだろう。いえ、荷風は幼い頃の原風景の中に、今の荷風の心情を塗りこんだのかもしれない。
荷風はその「恐ろしさ」と対抗するかのように、外遊帰りのエリートとしての歩みを歩まずに、死ぬまで、「崖の上の屋敷」の父親とは異なる「崖下の貧民屈」に生きる人を通した。 荷風が「崖下の貧民屈」から日本という国をまた世界をどのような眼で見ていたのか、荷風が書き残した作品、とりわけ、荷風が死ぬまで書き綴った日記「断腸亭日乗」を読んでみたいと思っている。
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