たりたの日記
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2005年07月03日(日) 収穫は多いが、働き手が少ない

主日。

収穫は多いが、働き手が少ない・・・
この言葉は良く牧師や祭司などの教職者が不足している時に使われる。確かに世界中で教職者が不足しているそうだ。
今日の説教の中で、この働き手は自分ではない「誰か」の事ではなく、むしろ、自分自身が働き手であることを自覚すべきだと感じた。

家に帰ると古い友人から登校拒否の姪の事を相談される。家族には理由も分からないからできれば会って話をして欲しいと言う。
普段のわたしだったら、そういうのは専門家に任せたほうがいいと言っただろう。面倒な事にはかかわりたくはないと。でも明日時間を作って会うことにした。

働き人として召されているのかもしれない。わたしができることがあるかもしれない。わたしに力はなくとも、そこに神が働くおつもりなのかもしれない。だとすれば、「誰か」ではなく、わたしが引き受けるべきだろう。


翌日、雨の中、約束の場所へ出かける。歩く道すがら、祈りながら歩いた。ともかく、その子と話ができるようにと。
待ち合わせのピザ屋へ入ると、すでに二人は店にいて、ケーキを食べていた。ところが、わたしを認めるやその中学1年生の女の子は椅子に後ろ向きに座りわたしに背中を見せる。これははずかしがり屋の次男が小さい頃よくやっていた格好、子どもってこうだった・・・。

友人相手に話し始める。しばらくすると顔はこちらに向くものの、眼を合わせようとはしない。けれどもある時からその子はわたしを一直線に見つめて、凄い勢いで「訴え」を始めた。わたしも彼女の見通すような視線を受けて立つ。2時間後、わたしとその子は握手したが、その握り返す手が強いので笑ってしまう。彼女は明日学校へ行くという。戦闘モードが伝わってきた。
この子は強い、やれるなと思う。

「あぁ、疲れた、あたし必死で訴えたんだから。」
「あぁ、わたしも疲れた。必死で聞いたんだから。」
ピザ屋を出て、いっしょに本屋へ行く、児童書コーナーで行き、ナルニア国物語の1巻「ライオンと魔女」を彼女に手渡す。
現実はいつだって過酷だ。とりわけ、子どもの頃は。
こんな時、わたしはファンタジーに力をもらってきた。そういうものが、案外楯になる。


守られていること、生かし力をくれる存在があると言う事を彼女がしっかりと受け止めることができますように。






マタイによる福音書
9:35−10:15

35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。

2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、

4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。

6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。

10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。

11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。

12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。

13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。

14 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。

15 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」


たりたくみ |MAILHomePage

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