たりたの日記
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雨だ。今日は午前中、仕事に出かける前、レッドロビンの消毒や剪定、またすっかり茂ってしまった月桂樹の枝落としをするつもりでいたが、明日の夕方にやることにしよう。
そんなことを思いつつ、何気なく開いたホームページの掲示板に奈央さんからの書き込みがあって、「雨ニモマケズ」の最後のフレーズが置かれていた。ふっと手の平に置かれる感覚でそれを受け止める。
するとその言葉はわたしの手の平からたちまち、心の隅のどこか隠れたところに達して、チクリと刺した。なんだろうこの痛みは・・・ 宮沢賢治の言葉に触れる度に起こるこの特別な痛みのことには気がついている。
思い立って「 雨ニモマケズ」の詩を何年かぶりに読んでみた。泣けた。 いつか車に乗っている時に、長岡輝子さんの朗読でこの詩が流れてきた時も、どっと涙が溢れてきた。その事も日記に書いたかもしれない。
「サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ 」という最後のフレーズが、何とも切ないのだ。ここに賢治の想いが凝縮されている。 賢治は熱心な法華経の信仰者だった。これは賢治が到達したい境地。この詩そのものがある意味で賢治の信仰告白だと思う。切ないまでの求道の思いをそこに見る。
宗教的な到達点というのは、この世の到達点とはまるで異なるところにある。 貪らず、怒らず、己を知り、静かに笑っている。あらゆることを自分を勘定に入れず黙々となし、人を助けられれば助け、助けられなければ人と共に泣く。持てはやされもせず、この世の中で小さな者、ひとりのデクノボーとして命を終える。
賢治のその作品にも、その世界への憧憬のようなものが色濃くあって、そこに触れる度にわたしは泣ける。きっと、賢治が希求するその世界を、わたしもまた、心の底で憧れ、切なく希見ているからなんだと思う。
前回の日記で「空の鳥、野の花」の聖書の言葉を書いたが、賢治の法華経の信仰と、イエスの教えは矛盾しない。見上げているところは同じようにつめたくすきとおったところだ。
脇の台所では、圧力鍋がしゅんしゅんと音を立てながら玄米を炊いている。「雨ニモマケズ」のそのヒトも、圧力鍋で玄米を炊いたのだろうか。 賢治がこの詩を手帳に走り書きした時にも、外はこんな具合に雨が降っていたのだろうか。
雨ニモ負ケズ 宮沢賢治
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 欲ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシズカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ
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